Part1
「人の為と書いて 偽りと読むのね」
の冒頭で始まる矢吹健の「夜は千の目を持つ」は、こんな秋の夜長だからこそ聞きたい名曲である。
まっぴかりな昼の太陽が姿を消した夜の漆黒だからなのか?
逆に千の目の気配を感じ、見張られている予感にかられる。それはネット社会という高度な情報社会ゆえに、絶えず何者かに見つめられている、監視されているということを予感した歌だったのだろうか?んな訳ないだろう。
しかしそれは、HPも作成し、こんなブログなんかやっちゃて、ついでにTwitterまではじめちゃった俺の少々びくついた心を図らずも代弁してくれている。
「人の為と書いて 偽りと読むのね」
このフレーズが繰り返し頭の中で鳴るたび、「論語」を記した孔子でさえ、老荘思想を説いた孔子でさえ、この世の真理を説いたお釈迦様でさえ思いつかなかった名言であると思える。
あるいは迷言か?
Part2
某日。二週間に一度通っている気功医院に向かったが、予約時間までかなりの時間があったので、近くの公園でiphoneで音楽を聞いていた。
「マイケル・ジャクソンが死ぬ夜は 丸亀の街に亀がでる おりゃ見たよ 亀を 讃岐うどんのように 白く透き通っていたマイケルの肌」
三上寛の天才性をベンチに座りながら感じた。そのあまりの素晴らしさゆえに、爆笑したくなったが、公園でベンチに座っているおっさんが、他人から見たらなんの理由もなく爆笑しているのは、おかしいだろと、理性が働き我慢したが、そもそもマイケル・ジャクソンの死を歌った歌など他にあるだうか?
しかもその夜には、丸亀の街に亀が出るのである。確かにマイケルの肌は讃岐うどんのように白かった。
三上寛という人は言葉のセンスがずば抜けている。それを天才と呼び変えてもいい。
丸亀の街に出た亀。それを俺も見たかった。
Part3
二ヶ月連続で阿字観瞑想を休んでいる。やはり月に一度は瞑想をしたい。瞑想すると、自分と向き合えるので、時の自分の状態を確認できる。
イラついている時は、はやく終わらないかなあと思ってしまうし、状態がいい時はすーっと心の深いところへ降りてゆくことができる。テンションが高いときは、幻覚のようなものが見える時もある。
だが、どんな時もやり終えると、不思議に頭がすっきりしている。
だがなんの因果か、今月の予定日は「コロッケものまねショー」を見に行かねばならずまた休むことに。
そんなあれからのきょうこの頃です。