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怜玢
  • 執筆者の写真makcolli

神仏分離 暪須賀垂浊賀の神瀟を事䟋に

   初めに


 この文章のもずずなったものは、6幎前に蚘した「浊賀の神瀟に぀いお」ず蚀う文章で、最近それを読み盎したずころ、これを倧幅に修正、加筆を加えお、明治初幎代に党囜で展開された神仏分離、廃仏毀釈の具䜓䟋ずしお蚘すこずにしおみおはどうかず思った。

「浊賀の神瀟に぀いお」を曞こうず思ったきっかけは、暪須賀垂浊賀町にある西叶神瀟、東叶神瀟のホヌムペヌゞを閲芧し、珟圚ではパワヌスポットずしお玹介されるこずが倚い䞡瀟の意倖な歎史を知ったこずによる。

 この文章を蚘すこずによっお、神仏分離、たたその逆の神仏習合などに興味のある方の䞀助になればよいず考えおいる。


   神仏習合


 結論から曞くず西叶神瀟、東叶神瀟ずもに近䞖たでは境内にあった別圓寺の別圓ず蚀う僧䟶が管理する神瀟であった。

 だがこのような圢態の神瀟は、浊賀地区に限ったものではなく、党囜接々浊々に存圚し、普通に芋られたものであった。

 このような僧䟶が神瀟を管理する、぀たり神を祀るず蚀う行為は神仏習合に基づくものである。そしお、この神仏習合を生み出した思想的背景が本地垂迹説である。

 思想的背景などず曞くず誰かが唱えたかのように思えるが、これは日本に仏教が䌝来した時から自然的に圢成されおいったものである。

 その根底にあるものは仏教が䌝来した土地では、土着の宗教の神を排斥したり、貶めたりするこずなく、守護神ずしお包摂する仏教の包容力である。

 このこずによっお仏は神の本地(正䜓)、神は仏の垂迹(仮の姿)ず考えられるようになっおいった。

 その具䜓䟋の䞀぀に八幡神がいる。奈良時代の東倧寺における倧仏造立は、歎史的に有名であるが、その倧仏造立が困難になった時に、倧分にある宇䜐八幡宮から八幡神が奈良に䞊り造立を霊的に助けたのである。このこずによっお八幡神は東倧寺の守護神ずなった。それを祀ったのが珟圚の手向山八幡宮である。

 いわば八幡神は神仏習合の端緒を開いた神であり、以降、時代が平安、鎌倉ず進むず八幡神は八幡倧菩薩ず仏教的な呌称になり、僧圢八幡神ず蚀う僧䟶の姿をした八幡神の仏像が補䜜されるに至った。そしお、その八幡神の本地は阿匥陀劂来ず考えられおいた。


   神宮寺、別圓寺


 こうした神仏習合思想の䞋に䜜り出されたのが別圓寺であった。ここではたず論を分かりやすくするために、神宮寺の説明から入りたいず思う。なお神宮寺ず別圓寺の区分は明瞭ではないのだが、私は別圓寺よりも芏暡の倧きなものを神宮寺ず考えおいる。

 関東の䞭でも有名な神宮寺であった堎所が、珟圚の鎌倉垂にある鶎ヶ䞘八幡宮である。だがこの神瀟は近䞖たでの呌称は、鶎ヶ䞘八幡神宮寺であり、その境内には宝塔や経蔵、護摩堂などの仏教斜蚭が立ち䞊び、八幡倧菩薩を祀る、もしくは䟛逊する為に瀟僧ず呌ばれる僧䟶が神前にお読経を行う空間であった。  このような神宮寺は、党囜各地に存圚し珟圚、倧瀟ず呌ばれるような有名神瀟が、か぀おは神宮寺であったず蚀う堎合も倚い。

 それに察しお別圓寺は、この文章で取り䞊げる浊賀地区のようなロヌカルな堎所にも存圚しおいたず蚀うこずができるだろう。

 別圓寺の倚くは神瀟ず隣接するか同じ境内の䞭にあり、その神瀟の祭祀を取り仕切っおいたのは、先にも蚘したように別圓ず呌ばれる僧䟶であった。

   神仏分離


 そのような神宮寺、別圓寺ずいう神仏習合に基づく宗教空間、宗教斜蚭は珟代では芋るこずができなくなった。それは幕藩䜓制が厩壊し、薩長及びに朝廷によっお暹立された明治政府の宗教政策によっお発せられた明治元幎の神仏分離什によっお匕き起こされたものである。ここにその神仏分離什を蚘しおみる。


「䞀 䞭叀以来、某暩珟あるいは牛頭倩王の類、その倖仏語をもっお神号に盞称え候神瀟少なからず候。いずれもその神瀟の由緒を委现に曞き付け、早々申し出ずべく候事。ただし、勅祭の神瀟、埡实翰、勅額等これあり候向きは、これたた䌺い出ずべく、その䞊にお埡沙汰これあるべく候。その䜙の瀟は、裁刀、鎮台、領䞻、支配頭等ぞ申し出ずべく候事。


䞀 仏像をもっお神䜓ず臎し候神瀟は、以来盞改め申すべく候事。附、本地ず唱え、仏像を瀟前に掛け、あるいは鰐口、梵鐘、仏等の類差し眮き候分は、早々取り陀き申すべき事。右の通り仰せ出され候事。」   (畑䞭章宏著『廃仏毀釈』より)


 最初の条では、暩珟や牛頭倩王、その他仏教甚語を甚いお神の名前にしおはならないこずが曞かれおおり、その神瀟の歎史を仔现に曞いお、届け出なければいけないこずが蚘されおいる。だが、それは逆に考えれば仏教甚語を䜿っお、神を祀る神瀟が倚かったこずの蚌でもある。

 暩珟ずいうのは仏が仮の姿で珟れたものずいう意味で、近䞖たでは神瀟においおも『叀事蚘』や『日本曞玀』に登堎するような●●の尊(みこず)などず蚀う神の呌称よりも、熊野本宮の熊野暩珟、讃岐琎平宮の金毘矅暩珟、吉野金峯山寺の蔵王暩珟、珟圚でも登山客で掻況を呈しおいる高尟山の飯綱暩珟など䞀般には、暩珟名が定着しおいた。

 䞀方、牛頭倩王に぀いおはむンドや朝鮮半島に来歎を持぀ずされる謎倚い神であるが、疫病を広める神、逆に解釈するず疫病を鎮める力を持っおいる神ずしお厇められおきた。

 牛頭倩王に察する信仰を祇園信仰ず蚀うが、その祇園信仰の総本宮が珟圚の八坂神瀟であり、ここはか぀お祇園瀟感神院ずいう名の比叡山延暊寺が管蜄する神宮寺であったが、明治の神仏分離什で祭神は玠戔嗚尊に改倉された。

 珟圚では銎染みのない牛頭倩王であるが、そもそも祇園祭は牛頭倩王を鎮めるための祭りずしおはじたった。その祇園信仰は党囜に広がり、各地で牛頭倩王は祀られおいた。でなければ、わざわざ条文に牛頭倩王ずいう名前を甚いおはならないず曞くはずがないのである。

 次の条文では仏像、鰐口、梵鐘などの仏具を神瀟に眮いおはならないこずが蚘されおいる。たた同じ明治元幎には、別圓瀟僧埩食什が発垃された。これもここに蚘しおみる。


 「今般王政埩叀、旧匊埡䞀掗なされ候に付き、諞囜倧小の神瀟においお、僧圢にお別圓あるいは瀟僧等ず盞唱え候茩は、埩食仰出され候。もし埩食の儀䜙儀なく差し支えこれある分は、申し出ずべく候。よっお、この段盞心埗べく候事。ただし、別圓瀟僧の茩埩食の䞊は、これたでの僧䜍官僧返䞊は勿論に候。官䜍の儀は远っお埡沙汰あらるべく候間、圓今のずころは、衣服は浄衣にお勀め仕るべく候事。右の通り盞心埗、埩食臎し候面々は、圓局ぞ届出申すべき者也」   (同)


 ここで蚘されおいるこずを端的にたずめれば、別圓、瀟僧の身分の党面的吊定である。「衣服は浄衣にお勀め」ずいう箇所は、これたでの別圓、瀟僧に神職の栌奜をしお、神道匏にお儀瀌を叞れずいう呜什である。このような発垃が盞次いだこずから、神仏習合は解䜓され、神仏習合に基づいた宗教空間、宗教斜蚭は急速に姿を消しおいった。

 そしお、この機に乗じお急進的な囜孊者などに先導された、仏像などの仏具や寺院そのものを砎壊するいわゆる廃仏毀釈の嵐が日本に吹き荒れた。

それは1000幎近い時間を醞成しお䜜り䞊げられおきた神ず仏が融和した文化的土壌を䞀倜にしお砎壊した行為ず蚀っおいいだろう。

 だがなぜ、明治政府は神仏分離によっお、神ず仏の間に明瞭な線を匕き、別圓や瀟僧などの神前にお仏匏儀瀌を執り行う者を吊定したのだろう。


   囜家神道の成立  その背景には明治政府の宗教政策であった神道囜教化、぀たり囜家神道の成立があった。囜家神道は『叀事蚘』や『日本曞玀』に登堎する神々にピラルキヌを䜜り、その祭祀の頂点に倩皇を䜍眮付け、祭政䞀臎囜家を目指し、囜民をその総氏子、蚀い換えれば臣民を䜜り出すこずが目的であった。

 であるから、そこに僧䟶が関䞎する䜙地はなかったし、たしおや仏が神の正䜓であるずする本地垂迹説などは圓然吊定の察象になった。たた、そこから生たれた暩珟や玠性のよく分からない牛頭倩王などは、囜家神道の末端装眮ずしお機胜するこずになった神瀟から取り陀かなければならないものであった。

 これらの神仏分離、廃仏政策を掚し進めたのは明治政府内にいたず思われる急進的な囜孊者などで、そこでは叀代の埩叀ずしお囜家神道を目指しおいたず思われる。

 しかし、これは私の掚論なのだが、明治政府の内郚には圓然、日本の近代化を目指す者たちもいた。それらの者たちは悪戯に叀代の埩叀を倢芋お、囜家神道を成立させたずは考えにくい。それらの者たちにずっお囜家神道は、神道の近代化を目指すものではなかったのだろうか。

 日本の近代化を目指す者たちがモデルにしたのが、欧米の囜家像であった。䟋えばむギリス囜教䌚ずいうものがある。そこでは王の戎冠匏から葬儀たで、王に関する儀瀌は囜教䌚が担うのである。

 倩皇家の儀瀌も、倩皇が即䜍する儀瀌でさえ、近䞖たでは即䜍灌頂ず蚀っお仏匏のものであった。そういった仏匏のものを䞀切取り払い倩皇家、もっず蚀えば囜家の儀瀌は党お神道が取り仕切る。そしお、その頂点に䜍眮する倩皇は叞祭者であり同時に、西掋的な君䞻なのであるずいう圢を圌らは䜜り出したのではないだろうか。  蚀わば囜家神道ずは叀代の埩叀ず近代化の折衷によっおできたものではないだろうか。そう蚀った圌らにずっお、やはり神仏習合は取っお捚おなければならない過去の遺物であったのだろう。


   近䞖の神道  先に神道の近代化ず曞いたが、では近䞖たでの神道はどのようなものであったのだろう。ここにその略説を蚘したい。たず神仏習合を䞭心的に掚し進めたのは、仏教の䞭でも真蚀宗や倩台宗の密教であった。

 その真蚀宗によっお解釈された神道を䞡郚神道ず蚀いこれも神道ず考えられおいた。倩台宗によっお解釈された山王䞀実神道もそうである。

 たた近䞖たで神道界をリヌドしおきたのは、神祇官長䞊であった京郜、吉田家が提唱する吉田神道であった。寺院のように本山末寺制床がなかった神職は、埌ろ盟がなく近䞖においお身分的に䞍安定な存圚であった。そのようなこずもあっお、近䞖の神職は吉田家に䟝頌しお䜍階などを賜っおいたのである。

 さらに䌊勢、出雲、諏蚪など神道は地方によっおも、その特色を異にしおいた。そのような珟圚の倧瀟ず呌ばれる神瀟には、瀟家ず蚀っお代々その神瀟の奉仕する神職の䞀族がいた(䟋えば諏蚪倧瀟なら守矢家)。しかし、この瀟家制床も明治になるず廃止された。

 たた䌊勢神宮は近䞖末においお、お䌊勢参りで掻況を呈しおいたが、それを陰で支えおいたのが埡垫ず呌ばれる者たちであった。圌らはその神瀟のご利益を党囜に説いおたわり、その参拝客を先導する珟圚で蚀えば、ツアヌコンダクタヌの圹割を果たしおいた。しかし、この埡垫制床も明治になるず廃止された。

 䞀芋するず明治政府の宗教政策は、神仏分離什などに芋られるように、仏教の圢を改倉させたかに芋えるが、その実は神道の姿さえも改倉させおいたのである。


   西叶神瀟に぀いお


 

  (西叶神瀟)  前眮きが非垞に長くなっおしたったが、ここからは浊賀町における神瀟の神仏分離を具䜓的に芋おいきたい。そのための資料ずしお、江戞幕府が地誌曞ずしお線纂した『新線盞暡囜颚土蚘皿』(倩保12幎:1841幎。成立)を資料ずしお甚い、実際に私が浊賀の神瀟に行っお分かったこずも加味しお論を進めたい。

 たずは『新線盞暡囜颚土蚘皿』より、西叶神瀟に関する箇所を抜粋しおみる(䞀郚旧字䜓を改めた)。


「総鎮守なり、祭神は応神倩皇なり、(äž­ç•¥)逊和元幎文芚源家繁栄の祈祷ずしお石枅氎八幡宮を爰に勧請す、平家西海に亡び所願成就せしかば文治二幎今の神號に改めしず云、本地仏阿匥陀劂来、䟋祭九月十五日、東浊賀の同瀟ず隔幎に祭る。

△別圓感應院 虚空山西栄寺ず號す、叀矩真蚀宗逗子村延呜寺末、本尊䞍動又虚空蔵を安ず」


 ここからかなりのこずが読み取れる。たず西叶神瀟を䜜った人物は、文芚(生没幎䞍詳)ずいう真蚀宗の僧であるずいうこずが蚘されおいる。話をわかりやすくするために、文芚は源頌朝(1147~1199)の護持僧であったずいうこずにする。

 護持僧ずは貎族や歊士を個人的に、霊的に守護する僧䟶のこずである。その文芚は源氏の繁栄のために、逊和元幎(1181)、京郜石枅氎八幡宮より、祈祷ずしお浊賀の地に八幡神を勧請した。ここで八幡神が遞ばれたのは、源氏が京郜にいた時代から、その氏神を八幡神ずしおいたからである。

 だが本文には「祭神は応神倩皇なり」ずある。ここが八幡神の性質の耇雑なずころで、この神は神仏習合によっお八幡倧菩薩ず呌ばれる䞀方で、応神倩皇ずも習合しおいた。応神倩皇は『日本曞玀』に蚘されおいる人物であるが、実圚したかどうかは議論が分かれおいる。

 その応神倩皇の母が神功皇后で、「䞉韓埁䌐」で有名な人物であるが、神功皇后はその戊の最䞭にあっお、応神倩皇を腹に宿しおいたこずから、この芪子は戊神ずしお尊厇され、特に歊士などの信仰を集めおきた。ここでの八幡神は菩薩ずいうより、戊神ずしおの性質が匷調されおいるのだろう。

 そしお平氏が滅亡する願いが叶ったこずから、文治二幎(1186)、叶神瀟ずいう神号にしたずされおいる。たたその本地は阿匥陀劂来ずも蚘されおいる。

 別圓寺に関しおは、その名称が感應院虚空山西栄寺であったずあり、その本山は逗子村の延呜寺であるずしおいるが、この延呜寺は珟圚でも逗子にある寺で、逗子倧垫を名乗っおいる。

 昔は田舎本山ず呌ばれる寺があり、延呜寺がそれであった。田舎本山ずは、䟋えば䞉浊半島なら䞉浊半島の同じ宗掟の取りたずめ圹であったのだが、延呜寺は逗子から葉山、䞉浊半島の高野山真蚀宗をたずめおいお、感應院はその末寺あったこずが分かる。

 感應院の本尊は䞍動明王、たたは虚空蔵菩薩ず蚘されおいるが、この虚空蔵菩薩は文芚自刻のものずされおいた。

 西叶神瀟の別圓寺ずしお栄えおいたであろう感應院であるが、先に蚘した明治元幎の神仏分離什、䞊びに別圓瀟僧埩食什を受けお、別圓は神職に身を転じた。西叶神瀟のホヌムペヌゞにはこのように蚘されおいる。


「明治元幎八月、第六十九代法印玉応は、別圓䜏職をやめお神官になり、「神明の感応ず奇瑞の珟象を氞く蚘念せんが為」姓を感芋ず改め、感芋枅(信明)ず名乗った。この人をもっお、西岞の叶神瀟の初代神官ずし、珟圚の感芋歊宮叞は第䞃十四代目(神職宮叞五代目)になる」


 西叶神瀟の祭祀者74人の䞭で、神職が5人しかいないずいうこずは、別圓寺の時代がどれだけ長かったか想像が぀くであろう。

 ちなみに感應院は珟圚の瀟務所がある堎所に建っおいたず考えられる。珟圚は仏教色を感じさせない同瀟だが、その境内をよく芳察しおみるず別圓寺時代の痕跡が残っおいる。

 

    (西叶神瀟の暩珟像) たずは石の塚のような塊があるのだが、そこに石仏がある。その姿は甲冑を着けおいお、神ずも仏ずも刀然ずできないのだが、銘文には刀読できなくなっおいるのだが、●●暩珟ず蚘されおいる。たた違う石仏は青面金剛のように芋えるが、光背が火炎であるずころから明王のように思える。

 狛犬も芋おみたのだが、そこにも感應院の名前があり、さらに講䞭の名前があっお、それは関西方面のものたであった。

 たた瀟殿の前にある金銅補の灯籠にも感應院の名前が台座に刻たれおおり、それを建おたであろう別圓の名前も刻たれおいた。

 

    (西叶神瀟の灯籠)


   (灯籠の台座に六十六䞖別圓の名前が圫られおいる)

   修隓道に぀いお


 次からは東叶神瀟ず八雲神瀟に぀いお論じおいきたいのであるが、その前に修隓道の抂略をしおおきたい。なぜなら、この二぀の神瀟が実は修隓道ず関わりが深い神瀟であったからだ。

 恐らくこの列島においお、山岳信仰ずいうものは瞄文時代の昔からあったのだろう。だがその昔、山岳ずいう空間は遠くから拝するものであり、神や粟霊が䜏たう他界ず認識され、人間が足を螏み入れるこずのない犁足地だった。

 だが奈良時代になっおくるず状況が倉わっおくる。むしろ積極的に、その他界に身を眮き、そこで修行を経るこずによっお、神、仏、粟霊の霊力を身に぀けようずする人々が珟れた。圌らの倚くは修行僧で、その代衚的な人物が圹行者、たたの名を圹優婆塞(䌝634~701)ずいい圌は修隓道の開祖ずしお、仰がれるようになっおいく。

 修隓道は日本ずいう颚土が生んだたさに習合宗教ず蚀っおいいだろう。山岳他界芳をベヌスに、そこに道教の神仙道、密教、神道、陰陜道、シャヌマニズムなどが耇雑に融合しあったものが修隓道である。

 その修隓道を実践する者を修隓者、たたは山䌏ずいい宀町時代頃から近䞖の初頭にかけお、二倧宗掟を圢成するようになっおいった。それが倩台宗系で聖護院を総本山ずする本山掟で、察する真蚀宗系の修隓者は、醍醐寺を総本山ずし圓山掟を名乗った。

 本山掟、圓山掟の二倧宗掟が本栌的に確立するのは、近䞖初めの埳川幕府による宗教政策によるものだが、圹行者を開祖ずしない地方修隓、山圢の矜黒山、倧分の英圊山などは独自性を保぀ために埳川家の菩提寺である寛氞寺末に入った。

 もずもず諞囜を廻囜しお修行をしおいた修隓者であったが、近䞖になるずそれに芏制が加えられ、定䜏化が進んでいった。これを里修隓ずいうが、圌らは村や里、郜垂郚に定䜏し、そこに䜏んでいる者のために、加持祈祷や占い、たじないを行なった。

 修隓者は劻垯が蚱されおいたので、憑祈祷(よりぎずう)ずいう圢匏の祈祷の堎合は、劻を巫女ずしお、その身䜓に霊を降ろし、蚗宣などを埗おいた。

 珟圚では修隓道、修隓者、山䌏ず聞いおもピンずこない人も倚いかもしれないが、か぀おは僧䟶や神職ず同じように、圌らは日本䞭の至る所にいお、宗教掻動を行なっおいた。

 しかし明治五幎(1872)、明治政府は修隓道廃止什を発垃し、宗教ずしおの修隓道の犁止、及びに修隓者の身分を吊定した。

 修隓道廃止什が出たこずによっお、本山掟や圓山掟の修隓者は、倩台宗、真蚀宗の僧䟶になるこずが匷制され、矜黒山や英圊山のような地方修隓は、そのたた神瀟ずなり、そこにいた修隓者の倚くが神職になっおいった。

 明治政府が修隓道を廃止した狙いはどこにあったのだろう。䞀぀には修隓道が仏教でもない神道でもない習合に基づく宗教である点を問題芖したのだろう。二぀には憑祈祷などに芋られるように、修隓者が人々に察しお行なっおいた宗教掻動は、近代化を目指す明治政府の䟡倀芳ずは盞容れなかったずいう点があるず考える。

 だがそのようなこずを以おしおも、匷暩的に発せられた法什によっお、連綿ず受け継がれおきた文化的䌝統が、消滅の危機を迎えたこずは確かなのである。


   東叶神瀟に぀いお


(東叶神瀟)

 以䞊のこずを前提ずしお、西叶神瀟ず浊賀湟を隔おお存圚する東叶神瀟に぀いお、考察しおいきたい。たずはたた『新線盞暡囜颚土蚘皿』を参照しお、近䞖の東叶神瀟の様子を芋おみるこずにする。


「正保元幎九月十九日西浊賀の本瀟を勧請し、牛頭倩王・船玉明神を合祀す、○神明宮 地䞻神なり △末瀟 皲荷 諏蚪 金毘矅 秋葉 蟚財倩 護摩堂䞍動を安ず △別圓氞神寺 耀眞山階寶院ず号す、圓山修隓醍醐䞉宝院末 鎌倉・䞉浊・歊州歊良岐䞉郡䞭修隓二十院の觊頭を務む」


 たずここから読めおくるのは、正保元幎(1644)に珟圚の東叶神瀟の地に、西叶神瀟から祭神を勧請し祀ったこずから、東叶神瀟は始たったずいうこずである。

 珟圚の東叶神瀟のホヌムペヌゞを芋おみるず、祭神は誉田別呜(ほんだわけのみこず)ずあるが、これは応神倩皇の別名なので、同じ八幡神ず考えおいいだろう。

 たた同ホヌムペヌゞには、神瀟の瞁起ずしお西叶神瀟ず同じく、鎌倉時代の文芚による䌝承を茉せおいるが、『新線盞暡囜颚土蚘皿』では、正保元幎の勧請ずなっおいるから、この蚘茉が正しければ東叶神瀟は、近䞖に創建されたずいうこずになっおくる。

 たたその際に牛頭倩王ず船玉明神(䞍明)を合祀したずある。さらに末瀟ずしおは、皲荷明神、諏蚪明神、金毘矅暩珟、秋葉暩珟、匁財倩を祀り、境内の護摩堂には䞍動明王を祀っおいたずいう、たさに神仏習合の空間が広がっおいたこずになる。

 さらに東叶神瀟にも西叶神瀟ず同様に、別圓寺があった。その名前が氞神寺で、圓山掟修隓醍醐寺䞉宝院末であり、鎌倉、䞉浊、歊州歊良岐(どこであるのかは䞍明)䞉郡の修隓寺二十ヶ寺を末寺にする本山栌の寺院であったこずが分かる。

 圓初私は、東叶神瀟が別圓寺をなくし、単なる神瀟に転じたのは、明治五幎の修隓道廃止什によっおであるず思っおいた。しかし、冷静に考えおみるず氞神寺の僧䟶は、修隓者でありながら別圓でもあるずいう耇雑な芁玠を持っおいたず考えられる。同神瀟のホヌムペヌゞには、以䞋のように蚘されおいる。


「明治元幎(1868)3月、明治新政府の垃告により、僧䜍(法印)・僧官(倧僧郜)等を返䞊し還俗埩食の䞊姓を氞井ず改む」


 やはり東叶神瀟から別圓寺がなくなったのも、明治元幎の神仏分離什や別圓瀟僧埩食什によっおであった。しかし同瀟では倧正時代ぐらいたでは、修隓道独特の行法である柎灯護摩が執り行われおいたようである。

 珟圚、東叶神瀟を蚪れおみおも、別圓寺である氞神寺の圢跡はない。だが非公開であるが、恐らく護摩堂に安眮しおいたず思われる䞍動明王像が珟圚でも祀られおいる。たた境内には新しいのだが、石仏の䞍動明王像も安眮されおいる。


 (東叶神瀟の石仏の䞍動明王)

   八雲神瀟に぀いお


(八雲神瀟)

 次に東叶神瀟から、そう離れおいない堎所にある八雲神瀟に぀いお考察しおみたい。ただ八雲神瀟に関しおは、明治以埌無䜏の神瀟になったらしく、西叶神瀟や東叶神瀟のようなホヌムペヌゞによる資料がないために、『新線盞暡囜颚土蚘皿』の蚘述からしか埀時の様子を知るしかなく、分かっおいる範囲で掚論するず明治五幎の修隓道廃止什によっお神瀟に転じたのではないかず考える。


「○䞍動堂 本尊は智蚌䜜 △倩神瀟 烏枢沙摩明王堂 △別圓満寶院 圓山修隓江戞青山鳳閣寺配䞋、䞭興栄達ず云ふ」


 䜕回か八雲神瀟には足を運んだこずがあるのだが、そこには鳥居もなく、屋根には擬宝珠が乗っおいるこずから、神瀟建築の本殿ではなく、仏教建築の本堂であるこずは、すぐに分かった。  さらにその本堂内を芗いおみるず、か぀お䜿われおいたであろう護摩壇があり(最埌に芋に行った時には撀去されおいた)、そこが参照した文章の䞍動堂で、か぀おは䞍動明王を本尊に護摩が行われおいたであろうこずが掚枬される。

 さらにその䞍動明王は、智蚌倧垫・円珍(814~891)䜜ずされおいるが、八雲神瀟が圓山掟修隓の寺だったずすれば、これは少し䞍思議なこずである。

 近䞖たで八雲神瀟の名称は、満寶院八雲堂ずいうものであった。珟圚の瀟名はこの八雲堂からきおいるのだろうし、明治以降祭神ずなった玠戔嗚尊も、その詠んだずいう和歌に八雲ずいう蚀葉が出おくるこずから、祭神ずされたのかもしれない。

 近䞖の八雲堂には䞍動堂の他に、倩神を祀る倩神瀟があり、烏枢沙摩明王を本尊ずする烏枢沙摩明王堂があったようで、これは珍しいこずのように思われる。

 私は八雲神瀟が東叶神瀟から距離的にも近く、同じ圓山掟修隓であったずいうこずもあり、この二぀の寺瀟には䜕か関係があるのではないかず考えおいた。しかし八雲神瀟の参照した文章には「江戞青山鳳閣寺配䞋」ず蚘されおいお、この青山鳳閣寺のこずが気になっおきた。


(八雲神瀟境内の䞍動明王。顔面は廃仏毀釈で砎壊されたず思われる)

    二぀の鳳閣寺


 この青山鳳閣寺ずは珟圚の東京青山にあった圓山掟の寺院で、圓山掟の江戞觊頭を務めた䞊に諞囜総袈裟頭を務めおいお、江戞垂䞭だけで109ヶ寺の末寺を持぀修隓寺であった。圓山掟だけでこれだけの数の修隓寺が江戞にあったずするず、本山掟も合わせるず単玔蚈算しおも200近い修隓寺が江戞には存圚しおいたずいうこずになり、その存圚の倚さに驚かされる。

 さらに関東近郊には八雲堂ず同じような、青山鳳閣寺末の圓山掟修隓寺が点圚しおいたようである。

 だが、この青山鳳閣寺には元になっおいる寺院があり、それは奈良にある鳳閣寺ずいう寺で、ここはもずもず圹行者開基、圓山掟修隓の掟祖ずしお仰がれる理源倧垫・聖宝(832~909)が䞭興したずされる寺院である。  その鳳閣寺が圓山掟修隓の諞囜総袈裟頭ずしお、党囜の圓山掟修隓を管理しおいたのだが、江戞にあった戒定院ずいう寺を青山鳳閣寺ず改称し、鳳閣寺の江戞別院にした時から、青山鳳閣寺が諞囜総袈裟頭の圹職も兌務したらしい。

 このこずを知った時に私の䞭に新しい知芋ず共に、疑問が生じた。それたで圓山掟修隓の総本山は醍醐寺ず思っおいたので、醍醐寺ず鳳閣寺の関係性ずいうものがよく分からなくなったのだ。

䟋えばこれたで芋おきたように、東叶神瀟には氞神寺ずいう醍醐掟末の別圓寺があった。そこからほどない距離に、同じ圓山掟修隓の八雲堂ずいう寺があったのだが、こちらは青山鳳閣寺末なのである。この関係性ずは䞀䜓どのようなものなのかずいう疑問が生じた。


   修隓道教団の成り立ち


 そこで私は、そもそも圓山掟修隓がどのようにしお成立しおいったのかを考え盎しおみるこずにした。だが、ここでは論を分かりやすくするために、先に圓山掟に察する関係である本山掟の成立過皋を芋おみたい。

 倩台寺門宗の開祖であり、䞉井寺(園城寺)を開いた円珍は、熊野の地で修行したずいうこずもあり、たずここで䞉井寺ず熊野の関係が結ばれるこずずなった。

 その䞉井寺の僧に増誉(1032~1116)ずいう人物がいお、癜河䞊皇(1053~1129)の熊野行幞に際しお先達を務めた。このこずから増誉は初めおの熊野䞉山怜校職に任ぜられた。さらに増誉は京郜に聖護院を開創し、ここを本山掟修隓の拠点ずした。  たた聖護院は門跡寺院でもあった。門跡寺院ずは皇族や摂関家の子息が、その寺に入り門跡ず呌ばれる座䞻ずなるもので、皇族ずしおは身分の保蚌、寺院ずしおは寺栌の保蚌を玄束する制床であり明治になるたで続いた。

 このように本山掟は皇族など有力者ずの関係、たた総本山である聖護院の䞊に䞉井寺があるこずなど政治的にも有意な立堎にあった。

 これに察する圓山掟なのであるが、圓初は圓山䞉十六正倧先達衆ず称する南郜などの有力寺院の連合䜓のような組織であった。しかし、暩嚁性では劣る圓山掟は、その棟梁ずしお醍醐寺を戎くようになる。これには理由があった。䞀぀は醍醐寺を開創した聖宝が圹行者以来廃れおいたずいう吉野金峯山及びに、倧峰山山䞊ヶ岳を再興したずいうこずず、醍醐寺の塔頭寺院䞉宝院が聖護院ず同じく門跡寺院であったずいうこずである。このこずで圓山掟は暩嚁性を獲埗しおいった。

 吉野金峯山から熊野本宮たでの山岳道を、倧峰奥駈け道ずいい䞃十五の靡(なびき)ずいう拝所を修隓者は拝しお行くのだが、以䞊のこずから本山掟は奥駈け道の熊野偎を重芁芖するようになり、圓山掟は吉野金峯山から倧峰山山䞊ヶ岳偎を重芁芖するようになった。

 私はこの連合䜓であった圓山䞉十六正倧先達衆の䞭に、鳳閣寺が入っおいるのではないかず思い、修隓道研究の第䞀人者、宮家準の曞籍を圓たっおみたのだが、そこに鳳閣寺の名前はなかった。あくたで鳳閣寺は醍醐寺の末寺であったようなのだ。

 そこで以䞋のこずを掚論しおみた。本山掟修隓の総本山である聖護院のその䞊には、さらに䞉井寺ずいう寺院がある。聖護院は修隓道に特化した寺院であるが、䞉井寺は台密(倩台密教)の寺院である。

 この関係を鳳閣寺ず醍醐寺の関係にも圓おはめるこずができるのではないかず思った。恐らく鳳閣寺は圓山掟修隓の諞囜総袈裟頭ずしお、圓山掟修隓に特化した寺院であったず思われる。だが、その䞊に䜍眮する醍醐寺は圓山掟修隓を包摂し぀぀も、䞉宝院流ずいう真蚀密教の流掟を䌝える䞭心地でもあった。

 青山鳳閣寺は明治五幎の修隓道廃止什に䌎い廃絶されたず考えられる。しかし、奈良の鳳閣寺は珟圚も存圚しおいる。しかも戊埌に醍醐寺から独立し、真蚀宗鳳閣寺掟ずいう宗教法人になった。䞀掟を構えるには、それなりの事情があったはずである。その事情ずいうものが明らかになれば、鳳閣寺ず醍醐寺の関係性ずいうものも、より明らかになるず考える。


   結びに


 懇意にしおいる高野山真蚀宗の䜏職ず以前、神仏分離やそれに䌎う廃仏毀釈に぀いお、雑談したこずがある。その際、その䜏職は「日本でも䞭囜の文化倧革呜みたいなこずが起きたんですよ」ず蚀った。

 文化倧革呜を振り返るず、共産䞻矩ずいうむデオロギヌのもずに、䌝統文化や宗教が砎壊されおいった。明治における神仏分離も、これず同じこずが蚀えるず思う。そこでは近代䞻矩ずいうむデオロギヌが振りかざされ、䌝統文化に基づく宗教は吊定、砎壊されおいった。

 珟圚の日本の歎史芳は、明治維新党面肯定だず蚀える。確かに明治維新は日本に近代化をもたらしたが、これたで芋おきたように日本の宗教颚土を䞀倉させるずいう負の偎面ももたらした。

 明治からすでに䞀呚以䞊回った珟圚、我々はいたずらに明治維新ず、それ以埌の近代ずいう時代を瀌賛するのではなく、第䞉者的芖点からそれを考察しおみる必芁があるだろう。

 最埌は浊賀ずいうロヌカルな地域の神瀟史を超えお、修隓道の通史のような感じになっおしたったが、逆に捉えれば八雲神瀟ずいうロヌカルな神瀟の断片的な資料から、圓山掟修隓の近䞖における組織構造のヒントを掎めたかもしれない。だが醍醐寺ず鳳閣寺の関係に関しおは、なお䞍明な郚分が倚くそれは今埌の課題ずしお残った。

 なにぶん浅孊のため、誀った蚘茉や䞍明瞭な郚分が倚いず思うが、それはこの文章を読んでいただいた諞兄のご指導を仰ぎたいず願っおいる。


 (䞻芁参考資料)


○西叶神瀟ホヌムペヌゞ

○東叶神瀟ホヌムペヌゞ

○『新線盞暡囜颚土蚘皿』(雄山閣)1998幎

○畑䞭地宏『廃仏毀釈 寺院・仏像砎壊の真実』(ちくた新曞)2021幎

○宮家準『修隓道 その歎史ず修行』(講談瀟孊術文庫)2001幎

○宮家準『修隓道 日本諞宗教ずの習合』(春秋瀟)2021幎

 

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