灯台下暗しとはよく言ったものである。
ある日、なんの気はなしに横須賀の浦賀にある東叶神社のホームページを見てみたら、驚くべきことが記されていた。
江戸時代まで東叶神社は単なる神社ではなく、別当寺が管理している社で代々その別当は阿闍梨や僧正と呼ばれる僧侶としては、位の高い人間だったということも分かった。
さらにホームページには別当寺の名前は、永神寺であったと書いてあり、横浜の金沢区あたりから、三浦半島を統括する醍醐派の本山各の寺院で、かなり大きな力を持った修験寺だったということが書いてある。
このことは自分にとって少なからずショックであった。
神仏習合や修験道に関心がある自分としては、まさか自分が住んでいるところからそう遠くないところに、このような場所があったとは知らなかったし、東叶神社は何回か足を運んだことのある場所だったからだ。
その東叶神社には浦賀湾の対岸に、同じく西叶神社という神社もある。
ついでということではないが、こちらのホームページも覗いてみると、やはり驚くべきことが書いてあった。
西叶神社にも江戸時代までは別当寺があり、名前を感應院と言った。
ホームページにはもともと、古義真言宗の末寺であったと書いてあるが、古義真言宗といってもいろいろな派がある。
そこのところは謎として残った。
さらに浦賀には八雲神社という神社があり、かなり以前、ここの神社の祭りに行った時の印象として、鳥居はないし、建物も神社建築というよりはお堂のような感じで、さらに内部には護摩壇まであったので、非常に不思議に思ったのだが、後からここがかつて修験寺だったということを知ったが、その時点ではそれ以上のことは分からなかった。
それから叶神社の意外な歴史が分かり、図書館に行って「新編相模国風土記稿」(1841年に完成)を読んでみると、自分の中の謎の部分がかなり解けてきた。
そして、そこで得た知識をもとにして、浦賀の町を歩いてみることにした。
浦賀はかつて三浦半島の中では、三崎とともに栄えていた町で、奉行所も置かれていた。
また湾があることから、江戸へ向かう船の寄港地にもなっていたはずだ。またどういう理由か分からないが、寺町でもある。
まず最初に浦賀駅から西叶神社に行ってみることにした。
しかし、ここの前の道は以前通勤時に何回も通っていたところで、何かもの珍しいものがあるとか、期待はしていなかった。
しかし本殿を一通り見た後に、金毘羅社に向かう階段を上りかけようとした時、一体の石仏が目に留まった。
それは甲冑を着た神とも仏ともつかない姿なのであるが、銘には判読できなくなっているが、●●権現と書いてある。
さらにこの石仏が置いてある場所は、明らかに人の手で積み上げられた石が折り重なっていて、一種の塚のようである。
さらにここでもう一つ石仏を発見した。一見すると青面金剛にも見えるが、後背に火炎が確認出来る。なにか明王なのだろうか。
金毘羅社まで登り、また塚のある場所まで戻ってきた。
今度は狛犬をよく見てみる。案外と狛犬の銘文には、古い時代のものが残っているからだ。
するとやはり感應院の名前があった。さらにもう一体の狛犬を見ると、講中の名前が刻んであり、その講は関西方面にまで広がっていたということも分かった。
さらに灯篭をまじまじと見てみた。
この灯篭は金銅製のもので、以前から神社の灯篭にしては珍しいものだなと思っていたが、今回よく見てみると台座にやはり感應院の名が刻まれていた。そしてこの灯篭を建てたであろう、別当の名も刻まれていた。
西叶神社を建てたのは僧・文覚となっている。以下に「新編相模国風土記稿」の西叶神社に関する箇所を抜粋してみる(一部、漢字の旧字体を改める)。
総鎮守なり、祭神は応神天皇なり、(中略)養和元年文覚源家繁栄の祈祷として岩清水八幡宮を爰に勧請す、平家西海に亡び所願成就せしかば文治二年今の神號に改めしと云、本地仏阿弥陀、例祭九月十五日、東浦賀の同社と隔年に祭る。
△別当感應院 虚空山西栄寺と號す、古義真言宗逗子村延命寺末、本尊不動又虚空蔵を安ず(中略)最古の本尊なり
ここからかなり面白いことが読み取れる。
まずは祭神は応神天皇なのだか、その本地仏として阿弥陀如来が祀られていたということ。天皇が祀られる時も、そこには本地仏が当てられていたということは初めて知った。
さらに文中に出てくる逗子村延命寺というのは、今でもあり、京急の逗子駅のホームからも見ることができる寺で、逗子大師の看板を掲げている。
昔は田舎本山というものがあり、例えば三浦半島なら三浦半島の真言宗のまとめ役のような寺があり、延命寺は高野山真言宗なので、西叶神社並びに感應院はもともと、高野山真言宗であったことが分かる。
なんの気はなしに通ったりしていた西叶神社だが、境内の細かいところを見ていくと、感應院時代から残っているものがかなりあった。
ちなみに別当寺の感應院は、現在の社務所が建っている場所にあった。明治になり僧侶であった別当は、神職になり以後、感見の性を名乗るようになり、社務所の裏側にひっそりと、感見家の墓はある。
この日は浦賀造船所の一般公開が行われていた。
次の目的地に行く前に、造船所の中に入ってみた。以前から見たいと思っていたドライドッグを見ることができてよかった。横須賀には近代遺産と呼べるべき建築や遺構がかなりあるが、その多くを有効活用していないのは残念だ。
カレーだけで人を呼ぶには、限界があるだろう。
(八雲神社にあった石仏の不動明王。廃仏毀釈で顔は破壊されたか)
そして八雲神社にやってきた。
ここは参道が海沿いから山に向かっている。建物は以前に来た通りだったが、内部にあった護摩壇は撤去されていて、残念だった。
ここも「新編相模国風土記稿」に記されている。だが前後の文脈があまりよく分からない。
◯不動堂 本尊は智証作 △天神社 烏枢沙摩明王堂 △別当満寶院 当山修験江戸青山鳳閣寺配下、中興栄達と云ふ
この文章からすると、まず現在のお堂が不動堂で、そこには本尊の不動明王が祀られていたのだう。
さらに境内には天神社があり、烏枢沙摩明王堂があったことになる。烏枢沙摩明王を単独で祀るお堂があったとすれば、かなり珍しいものであったのではないだろうか。
この後訪れた東叶神社は醍醐寺の末寺で、八雲神社はもしかしたら、その子院なのではないかと考えていたが、江戸に青山鳳閣寺という同じく当山派の寺があり、その末寺であったようだ。
ちなみに現在の八雲神社という名前なのだが、かつてここは満寶院八雲堂という名称だったらしく、そこから八雲神社としたらしい。
現在の祭神は八雲ということで、素戔嗚尊になっている。ちなみにここの夏祭りでは猩々坊という、もともとは中国の『山海経』という書物に載っているお化け(?)の山車が引かれるが、それがいつ始まったのかは、よく分からない。
続いて東叶神社に向かった。
ここはホームページによると、かつて醍醐寺末の本山各の寺院で、かつての本尊である不動明王も残っているとのことで、かなり期待をして行った。
境内は広い。なにしろ明神山という山一つが境内になっていて、そこを整然と石段で整備している。往時の勢いというものを感じさせるものはある。
しかし西叶神社のように具体的に、別当寺が存在した痕跡を見つけることはできなかった。
社務所で御朱印をいただいたので、社務所の方に、かつての本尊である不動明王のことを聞いてみると、その像は非公開で、その代りとして境内に石仏の不動明王があるというので、その石仏にお参りさせていただいた。
明治初年の神仏分離令や、明治五年の修験道廃止例などによって大打撃を受けたであろう多くの修験寺だが、東叶神社では大正時代ぐらいまで、明神山にて柴燈護摩が執り行われていたそうである。
その時代までは修験の行法を執り行うことができる者が、いたということであろう。
「新編相模国風土記稿」には、このようにある。
正保元年九月十九日西浦賀の本社を勧請し、牛頭天王・船玉明神を合祀す、
◯神明宮 地主神なり △末社 稲荷 諏訪 金毘羅 秋葉 辨財天 護摩堂 不動を安ず △別当永神寺 耀眞山階寶院と號す、当山修験醍醐三宝院末 鎌倉・三浦・武州久武良岐三郡中修験二十院の触頭を務む
武州久武良岐という場所が現在のどこに相当するのか分からないが、少なくても西叶神社の別当寺、永神寺は修験寺二十を取り仕切っていた。
現在だと修験寺というとピンとこないが、かつては他の宗派の寺院と同じように普通に存在していたのだろう。
「新編相模国風土記稿」の三浦半島の箇所を散見してみても、少なからず修験寺を見つけることができる。
三浦半島の寺院というと、浄土宗や浄土真宗、日蓮宗や臨済宗、曹洞宗が圧倒的に多いのだが、それは密教寺院がもともと少なかったのではなくて、明治期の廃仏毀釈や神仏分離、修験廃止などによって廃寺になってしまったり、神社に変わってしまったところが多かったのではないだろうか。
浦賀の神社に関しては、そういったパターンであることが分かった。
それと西叶神社の祭神に牛頭天王とあるように、牛頭天王つまり祇園信仰はかなり一般的なものであったようだ。
現在、パワースポットとして有名になった走水神社であるが、「新編相模国風土記稿」には、「走水権現社」と記されている。
主祭神は現在と同じく、日本武尊なのだが「相殿に牛頭天王を祀る」とある。さらに不思議にことに、「十王と唱る像を筥中に秘置り」とあり、まさに神仏習合の様を呈していたことが分かる。
また自分が阿字観や護摩によく行く東光寺は、津久井という場所にあり、ここには牛頭天王社があったと記されている。
◯牛頭天王社 (中略)本尊薬師は東光寺に置り
この本尊の薬師如来は東光寺の本尊の薬師ではなく、厨子の中に秘仏として安置されている牛頭天王の本地仏のことである。
今でこそ知る人ぞ知る牛頭天王だが、近世までは案外普通に祀られていたのかもしれない。
その後自分は浦賀を東に抜けて、鴨居という場所にやってきた。
ここに八幡神社という神社があり、以前に来たことがあるのだが、やはり「新編相模国風土記稿」に面白いことが書いてあったのだ。
◯八幡社 村の鎮守なり (中略)神主畑伊賀 吉田家の配下、先祖伊賀元禄中より禄務を相続す
文中に出てくる吉田家とは京都にある吉田神社を中心に、吉田神道を提唱し、全国の神道界に影響力を及ぼしてきた一族である。
そのことについて書き出すと、さらに長くなってしまうのでよすが、こんな三浦半島の小さな神社までを配下に置いていたとは、吉田神道恐るべしであり、確かに吉田神道ネットワークは存在していたのだと思った。
しかし、当然のことながら境内、さらに社の中を覗いても吉田神道に関するものは何もなかった。
そのまま鴨居から観音崎に出て、家に帰った。その日の走行距離は14キロに達していた。
やはり歴史を考察する時は、第一次資料というものが非常に重要だということが分かった。
それを読み現地に赴いてみると、すでに無くなっているものや失われてしまったもの、さらに案外と残っているものが見えてくるし、その背後にあるものも把握できるということを感じた。
そんな案外と楽しい一日だった。