ファーン、ファーン・・・
それはフランジャーのかかったギターの音だろうか?それともアナログシンセの音だろうか?
ファーン、ファーン・・・
その音色のなかに安藤昇の語りが滑り込んでくる。
おい。糸のないギターを弾いてくれ。
風にゆれるしだれ柳のように切ないやつを。
とてもぬれたいい音さ。
よくよく聞きゃあ、涙でね。誰かがさめざめと泣いているのさ。
あの犬がやってくる前の、束の間に、早いとこ弾いておくれよ。
風があっちからこっちへ吹いてくるちょっとの間だよ。
黒いゴワゴワしたあの毛が、風に運ばれてくるその前に、
胸もとろける一節を・・・
早く!早くだ!小僧っ!
この胸の奥の、飢えた黒犬を早く寝かしつけてくれ。
安藤昇はまったくもって油断ならぬ男である。 このシュールレアリズムと恫喝を足して二で割ったような曲は、少なくとも俺にとってはレッド・ツェッペリンの「Black Dog」よりは名曲であり、この曲を主題歌にした安藤昇主演。唐十郎監督作品『任侠外伝 玄界灘』(未見)撮影中、安藤はモノホンの拳銃を使用したかどで、唐十郎と共に警察にパクられた。
安藤の人生は波瀾万丈である。だがそれをエンジョイしているかのようでもある。
特攻崩れの戦中派、法政大中退、混乱期の渋谷を掌握した安藤組、映画俳優への転身、そして家相研究家へと。
安藤はゴキブリであると書けば語弊があるだろうか?しかしそのゴキブリはテラテラ黒光りしているゴキブリである。安藤はその触覚により、時代の空気を敏感に読み取り、サバイバルしてきた。
あるいはその目はヤモリのごとしか?あの零下20度の眼光。安藤をハイエナだと言うこともできる。だがハイエナにはハイエナの栄光があるということを知るべきだろう。
誰もがライオンになれる訳ではないのだ。俺など安藤に比べればボウフラにしか過ぎない。
安藤こそ元祖チーマーであり、渋谷系であり、さしずめ今で言えばオダギリジョーの経歴が元やくざと言ったところだろうか?
だが安藤は俳優としても光っていた。元やくざが片手間に役者やっているというレベルを超えていた。
安藤は主演作にしても助演作にしても、そのヤモリのごとき存在感を放っていた。『男の顔は履歴書』、『懲役十八年』、『実録・銀座私設警察』、『実録安藤組 襲撃編』。
タイトルこそ忘れたが、安藤がプロテュースした作品が、昔なにかの間違いでVHS化されていて見たのだが、それが完全なやくざドキュメンタリーで、入墨を入れている模様から、モノホンの賭場、そしてモノホンの指詰めが映像として記録されていたのには慄然とした。
そんな安藤のフィルモグラフィーのなか、ぜひとも見ておきたいのは『安藤昇の我が逃亡とSEXの記録』だろう。
この作品は安藤が実際に起こした横井英樹襲撃事件を、その本人が演じるという虚構の中に現実があるような不思議な作品だが、とにかくサツに追われる安藤が、愛人宅に逃げてはセックスに及び、逃げてはセックスに及んでいたという記憶しか残らない作品だが、最後サツに連行される安藤が、パトカー内にてオナニーに及ぶシーンだけでも見る価値はある。
ちなみに監督はロマンポルノの奇才・田中登。
安藤には著書も多数あり、そのなかの『安藤流 五輪書』というものを最近読んだ。
1991年。銀座にて安藤はふぐ料理を食べながら日本文化の奥深さを感じ、かわりにわらじのようなステーキを食べるしか能のないアメリカ人を蔑んでいた。
時代のキーワードはソ連崩壊、お立ち台ギャル、DCブランド、冬彦さん、バブル崩壊、リクルート事件、エイズの流行、皇太子の結婚、ブッシュ大統領が宮沢総理主催の晩餐会でゲロまいた。etc。
そんな世相の中、安藤は靖国問題からチ×コまでを一刀両断というよりも愚痴っていく。この愚痴りにこそ安藤の粘着体質が示されていよう。
理屈をこねずに英霊を祀れと言ったその同一線上に、ナンパの仕方が説かれている。
安藤流家相研究とフロイトの精神分析がドッキングされ、パイパンの女はつきを呼ぶとか、猿の夢は凶のしるしとか、女は軍隊を組織して戦い血を流せるのか、女が流せるのはせいぜいメンスだけ、と著しく女性蔑視なことを言ったかと思うと、世界中の男の金玉は女に握られているとも言う。
この本を読んで、安藤がピザも食べればカフェオレも飲むということも知った。
読んだことないが『五輪書』と言えば、宮本武蔵が武士道精神を説いたものとして有名だが、『安藤流 五輪書』でも男は桜のように散り際が肝心と記してある。
だがそれと並列に、大映の試写室で看板女優の肩にチ×コを乗せ、吊るし上げられた俳優のことも記してある。
アラブの石油王のもとへ嫁いだAV女優のことも記してある。自身が指名手配中、パンアメリカン航空の機長の制服を着て、検問所を突破したしたことも記してある。
医学の進歩が逆に劣性遺伝を残すとも記してある。
本家『五輪書』にはさすがにチ×コの使い方までは書いてなかったであろう。それを天下に名をはせた剣豪と、たかだかやくざの愚痴りの違いと考えるのはたやすいが、下半身事情に触れてこそモノホンの男と考えることもできる。
94年の段階で鬼畜米英を唱える安藤の頭は、どうかしているとも思えるが、安藤と同年代の戦中派の人間が、敗戦を迎えたとたん「アメリカ大好き」と手のひらを返し、アメリカのポチに成り下がったことに安藤が違和感を覚えたのもうなづけるような気もする。
安藤の文章に通底しているのは、おごれるもの久しからず、繁栄の先には必ず衰亡が待っているという一種の諦観である。
それも常に時代の異端者として、ヤモリのように存在していた安藤ならではの視点だろうか?
終戦の混乱期、靴磨きが靴を修理すると言って、その底にスルメを張り付けていた。
MPにパクられたピカピカの革靴。真っ赤なラバーソール。
安藤昇。現在88歳。
彼の目には3.11。そして集団的自衛権へとなだれをうってゆく現在の日本はどのように見えているのであろうか?