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執筆者の写真makcolli

皆殺しのバラード


某日。横浜、黄金町にあるシネマジャック&ベティに山口冨士夫のドキュメント映画『皆殺しのバラード』を見に行く。

あれから一ヶ月近く経つが、俺の脳内には永遠にロックし続ける山口冨士夫の姿が焼き付けられている。

その冨士夫の姿を見ながら思った。後悔したと。

当然それは、老いた冨士夫の姿を見て失望したということではなく、生前の彼のライブを経験しなかった自分に対する後悔であった。

山口冨士夫のライブ。それは日本のロックにおいて、絶対危険領域だった。そこに我が身をさらさなかった自分に対して、なにをしていたんだ、という気にさせられた。

そこまでの気持ちを起こさせる現役感、そしてヤバさが晩年でさえ冨士夫にはあった。ギターソロはほとんど、ソロプレイヤーに任せてしまっている。歯は抜けてしまっている。

ティアドロップスのなどの頃に比べれば、ヨレヨレになっている感じは否めない。だが、そんな冨士夫がステージに立つと、もの凄いかっこいいんである。

絵になるんである。

ロックは音楽の一ジャンルではなく、生き様だ。そうよく言われる。だが、本当にそれを実践し、貫き通した者はどれだけいるだろう。

作品のなかで冨士夫は言う。

「あの頃は成毛滋とか上手いヤツならいくらでもいた。でもヘッドがイカしたヤツはいなかった」

ヘッドがイカしたヤツ。つまりセンスのあるヤツ。なにかを持っているヤツ。

冨士夫は本のインタビューで、好きなギタリストを聞かれて「レノンのリズム」と答えた。

技巧にしか走ることしかできない者には、意味不明の発言だろう。だが上手い下手ではなく、なにかを持っているか、いないかその重要性を冨士夫は強調し、実践し続けた。

「ちょっと前の方のヤツ。しゃがんでくれねえかな。うしろの方見えねえからさ」

そんな優しさも冨士夫にはあった。

「誰だよ。笑ってるのはよ。外でたばこ吸ってんじゃねえよ。ステージからは全部お見通しなんだぜ」

一気に凍り付く会場。気に入らなければオーディエンスにさえ噛み付く。それも一発一発が真剣勝負だったからだろう。

「もう帰って。金返すから。変な空気になっちゃったからさ。金なら返すから帰っていいよ」

何本ものシールドがこんがらがっているステージで、ギターから音が出ない冨士夫はそう言った。

例えばスタジオに連れてくるのさえ困難と言われたギター・スリムのように、冨士夫もむらっ気のある人だった。

最近、ある絵を描く為にボブ・マーリーをガンガンに聞いている。

レゲエをお気軽なリゾートミュージックと勘違いされては困る。そこに歌われているのはこの社会(バビロン)が巧妙に作り出すシステムと、それに洗脳されてしまった者への抵抗の調べ、レベルミュージックである。

俺はサブカルチャーという言葉の意味はよく分らない。文化にサブもメインもあるか、という気になる。

だが、カウンターカルチャーというのなら分る。システムに対する抵抗。

それを音楽でも絵画でも映画でも実践してゆく。

村八分の頃から冨士夫は一貫して、そこに立っていた。

冨士夫は一時期、髪をドレッドにし、音楽面でもレゲエを吸収していたが、ボブ・マーリーの歌った精神性まで継承していた。スタイルだけではなく、スピリットも受け継ぐ。そんな人は日本では希有だった。

作品は全編、手持ちカメラで撮影されている。かといって完成度が低い訳ではない。逆にその荒々しいカメラワークが、荒々しい冨士夫のステージを捉え、見ている方はライブ会場にいるかのような臨場感を受ける。

冨士夫の死はある程度予期していたものだったが、作品を見てみるとまだまだやる気はガンガンにあったことが分る。

むしろその死は突然すぎたくらいだ。

「ジェノサイドって知っているか?そいつはもう始まっているんだよ」

そう言って冨士夫が歌い出したのは、福島原発事故を歌い込んだ「皆殺しのバラード」だった。

単に反抗するだけじゃない。抵抗するだけじゃない。この社会で起こっている欺瞞や偽善に対する真摯な態度とイカしたインスピレーション。

が、ゆえに山口冨士夫はシステムから見れば危険であったが、値千金のロックンローラーであり、ブルースマンであり、ラスタマンであった。

「生きているうちに俺を見ることができて幸せだったな」

そう言い残して山口冨士夫は、どこかへ旅立った。

決してあなたが歩んだ軌跡と、メッセージは忘れることができない。

永遠に。

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