
谷崎潤一郎の原作映画。それも大映の得意とするところであった。
自分が見ただけでも、『卍』、『痴人の愛』(安田道代版)、そして今回見た『瘋癲(ふうてん)老人日記』とある。
この中で気づいたのは谷崎潤一郎が、どの作品も主題として「性」を取り上げいていることにあった。そして『卍』と『痴人の愛』を監督した増村保造もまた「性」を積極的に描いた人であったから、この二作品は素晴らしい作品になったと言える。
その後、増村保造はさらに「性」を掘り下げ、『セックスチェック 第二の性』と言う傑作をものした。
さて、『瘋癲老人日記』は同じく谷崎潤一郎原作、そして『卍』と同様に若尾文子主演ということで見てみたのだが、これが類を見ない怪作であった。
『瘋癲老人日記』の「性」は老人の「性」である。年老いた男の中に残存している「性」。もしくは肉体は老いても、精神の中にある「性」である。
その予兆はすでに、その一家のお爺さん、山村聡の喜寿のお祝いの席から始まっていたのかもしれない。その一家は庭にコリーなんか飼っていて、家政婦も二人いる、運転手もいる、お爺さん専属の看護婦もいるという裕福な家庭であった。
長男の川崎敬三は会社勤めをしていたが、部長に出世したばかりだった。他に辻堂に嫁に行った次女と、京都に嫁に行った長女がいて、お婆さんも含めて伊豆の旅館にて、山村聡の喜寿のお祝いを開くこととなった。そして、川崎敬三の嫁が若尾文子という配役。
宴の司会は、まだ幼い川崎敬三と若尾文子の長男が務め、お琴の演奏は辻堂の孫娘たちが務めた。いよいよ本日の主役ということで登場した山村聡は、杖をついてよぼよぼ、すでに左手はリウマチかなんかで動かなくなっていた。
専属の看護婦、佐々木に支えられて座に着いた山村聡。
「おじいちゃん。おめでとう」
「はは。今夜は特別な夜じゃ。ビールぐらいは飲めるだろう」
座が進んでいくと颯子(さつこ、若尾文子)は、山村聡に自分の鮎の食べかけを差し出した。
「人の食べかけを食べるなんて行儀が悪いわ」
と次女。
「い、いや。わしはこの鮎の肝が大好きなんじゃよ」
脱衣場にいる長女と次女。
「颯子さんてなんか嫌い」
「なんでも。浅草で踊り子をしていたいうやないか」
山村聡と颯子は別室にいる。そして山村聡は颯子に金を渡す。
「君。スウェードのバッグが欲しいって言っていたじゃないか」
「ふふ。ありがとう」
東京の家に帰っても、ある夜、颯子が山村聡の部屋に行くと、こんなこともあった。
「ほら。もうお爺ちゃん。寝る時間でしょ。睡眠薬を飲まなきゃ」
「口移しで飲ませて欲しい」
「お爺ちゃん。図に載っているんじゃないわよ」
とにかくこの作品、この一家の他の人々というのは、本当に脇役で、あくまで山村聡と若尾文子を引き立たせるために存在しているかのようである。
川崎敬三にはキャバレーのダンサーの愛人がいるのだが、それも必要以上には描かないし、若尾文子は若尾文子で、山村聡の甥を家に連れ込んだり、一緒にプールに行ったりしているのだが、それも説明程度である。
ある種倒錯した山村聡と若尾文子の関係が、この作品の核であることは言うまでもない。
ある夜、颯子は看護婦の佐々木の代わりに、山村聡の面倒を見ることになった。使用人たちがやってきて、部屋に颯子のリクライニングチェアーを運んでくる。
ネグリジェ姿で現れて、そこに横になる颯子。山村聡の顔が毛色ばむ。
「なにそんなところに突っ立ているのよ。ここにきてひざまづくのよ」
「こ、こうかい」
「きょうはね。特別にわたしの足をマッサージさせてあげるから」
颯子の足を揉み始める山村聡。だが次第にたまらなくなり、その足に口をつけた。
「なにしているの。気持ち悪い。わたしシャワーを浴びてくるわ」
山村聡の部屋には移動しなくても済むように、専用のシャワールームがあった。そのシャワールームのすりガラス越しに見える颯子の裸体。その裸体を山村聡は食い入るように見つめるのであった。
次女は喜寿のお祝いの時から、お婆さんに頼んでいる話があった。そして今日、辻堂から東京の家にやってきたので、お婆さんと揃って、その話を山村聡に切り出した。
「そんな金はないね」
「お爺さん。なにもそんな無碍に断らなくても」
「株券を持っているんだろ。それを処分すればまとまった金が入ってくる」
「でもあれは、最後まで取っておきたいのよ。あの物件は急がないと先約が決まってしまうかもしれないの」
「今までこの子が、こんな話をしたことないじゃないですか」
「じゃあ。お婆さんがなんとかしてやれよ」
「まあ」
「もういいわ。親でもなれば子でもないから」
山村聡と颯子の関係は、さらにエスカレートしていった。またしてもシャワーを浴びている颯子。
「わたしね。ここのドア開けっぱなしにしておくことにしたの」
這うようにしてシャワールームに山村聡はやってくると、颯子の足に唇を近づけ、やがてその舌を這わせはじめた。
「いや。ナメクジが這っているみたいで気持ち悪いじゃないの」
颯子は容赦なく山村聡が舌を這わせる上から、シャワーを浴びせていった。びしょびしょに濡れていく山村聡。
「いいじゃないか。いいじゃないか」
「お爺ちゃんのくせに生意気よ」
颯子は容赦なく山村聡を足蹴にした。
家政婦はお婆さんに言った。
「大奥様。わたしこの間、奥様に銀行に行くように言われまして、何気に通帳を見てしまいましたの。そしたら200万円もございましてね」
「まあ。もうこの家はあの子の天下なんだよ」
お婆さんはそれからしばらく、辻堂の娘の家に行って帰らなかった。
颯子は差し入れだと言って、山村聡に寿司を差し出した。その時、颯子は明るい色のノースリーブを着ていて、その白い肌が映えている。
「君。肌が綺麗なんだね」
「そんなことを言ったってダメよ」
「寿司を口移しで食べさせてくれないか」
「なに言ってんのよ。これでも食べなさい」
颯子はそう言うと、食べかけの寿司を山村聡の口にねじ込んだ。
彼女はその肉体の魅力で完全に山村聡を支配下に置き、やがては家の庭にプールを作ることを約束させた。
いつものように颯子が山村聡の部屋に行くと、山村聡はおもむろに颯子の首筋に口をつけてきた。
「ちょっと。調子に乗らないで」
「い、いいじゃないか。もう。足だけでは我慢できないんだよ」
「ネッキングは高いわよ」
「ネッキング。そんな英語ができたのか」
「ネッキングさせてあげたら、なんでも言うことを聞くの?」
「聞く。聞く。聞くから」
「じゃあいいわよ」
颯子の首筋に舌を這わせる山村聡。むしゃぶりつく山村聡。
「これでなんでも言うことを聞くわね」
「なにが欲しいんだ」
「キャツアイの指輪よ」
「キャツアイって猫目石のことか。いくらするんだ」
「300万」
「300万!?そんな金は出せんよ」
「ならいいのよ。この部屋にはもう来ないから」
「わかった!わかった!300万出すよ。高いネッキングだなあ」
颯子はそのキャツアイの指輪をつけて、ボクシング(作中では拳闘を見に行くと言っている)を見に行ったが、同伴していたのは件の甥であった。
だが二人が座る席の近くには辻堂の娘の知り合いがいて、その指に光る見事なキャツアイを記憶したのだった。
お婆さんは辻堂の次女と一緒に東京の家に帰ってきた。山村聡は趣味の骨董品を見るのに夢中になっている。
「お爺さん。率直に聞きますけどね。颯子に猫目石を買ってあげたんですか」
「ああ」
「ああって。いくらのものなんです」
「300万」
「まあ!300万!颯子にそんな高価なものを買い与えてあげて、どうしてこの子にはビタ一文出してあげようとしないんです」
「お父さん。ひどいわ」
「二人ともうるさいなあ。なにかとやってくれている嫁に買ってあげただけじゃないか」
「それにしても金額が多すぎるじゃないですか。颯子はこの家のなんなんです。あなたと言う人を見損ないましたよ」
「こっちだってな。お前のような婆さんに愛想が尽きているんだよ。この庭にプールを作ってやるんだ。颯子のためにな。そうしたら彼女は俺のために、見事なクロールを見せてくれると言ったよ。ぐっ。苦しい」
そのまま倒れ込む山村聡。
「お爺さん!お爺さん!」
「佐々木さん!早くきて!」
別の夜。颯子が山村聡の部屋に行くと、彼は手が痛い痛いとベッドの上で喚いていた。
「手が痛いよ!痛いんだよ!」
その様子を冷めた視線で見ている颯子。
「もう手が痛いんだよ!助けてくれよ!さっちゃん!」
「さっちゃんなんていつの間にか呼ばないで。こっちも強情なんだから、そんな芝居打たれちゃ余計意固地になるじゃない」
山村聡はベッドから転がり落ちながら、さらに言う。
「本当に痛いんだよ!嘘じゃないんだよ!頼むよ!さっちゃん!」
「もう芝居はよしなさいって」
「じゃあ本当の接吻をしてくれるのか」
「本当の接吻じゃないけどね。離れた接吻ならしてあげる」
そう言うと颯子は、その唇から唾液を垂らし、山村聡はそれを口で受け止めると、恍惚の表情を浮かべた。
それにしても山村聡である。この作品を作品たらしめているのは、エロテックな若尾文子の存在が前提としてあるのだが、山村聡のやりすぎ感満載の演技が、この作品を特筆すべきものにしている。谷崎潤一郎が原作で描いたであろう、老人の「性」を見事なまでに体現している。
この作品の監督、木村恵吾という人はあまり聞いたことがない。この作品の中における山村聡の演技は彼による演出なのだろうか。それとも山村聡自身が、ノリノリでキャラクターメークをしたのだろうか。
谷崎潤一郎が、この原作を発表したのが1962年。そして、この映画の公開が同じ年であるから同作は原作に間髪を入れずに作られたことになる。
62年のその頃の日本といえば、少子化でもなく、高齢化でもない社会だったろう。その中で今作が扱っているテーマは、社会的に見れば奇異に見えたかもしれない。
2020年代の現在でさえ、老人の「性」はある種タブー視されている。だが逆に谷崎潤一郎の描き出したこのテーマは、先駆的であり、普遍的なものであるとも言えるだろう。
だから本作は半世紀以上経った今見ても面白いし、むしろ高齢化社会が到来した今の日本でこそ見るべき作品なのかもしれない。
シーン変わって京都の旅館。
「もう急に京都に行くって言って聞かないものですからね」
「本当にもうお爺ちゃんは、駄々っ子みたいなもんやからな」
山村聡は自身の墓を立てる場所を探すと言って、長女を頼って京都にやってきた。東京からは颯子と看護婦の佐々木が同行し、栂尾の高山寺などを見て回った。
そのあと長女と佐々木は、奈良見物をしに行くと言って、山村聡を颯子に預けて行ってしまった。
「お爺ちゃん。お墓は五輪塔がいいって言っていたわよね」
「うん。それもいいんだがな。仏足石もいいと思って。
「仏足石?なにそれ?」
「簡単に言うとお釈迦さまの足形でな。仏の三十二相というものがあって、ほらこの写真にあるだろ。お釈迦さまの足の裏には、このような模様があって、それを掘ったものが仏足石なんだよ」
「あら。これもいいわね」
「それで、さっちゃんにお願いがあってな」
「なに」
「さっちゃんの足形で、この仏足石を彫りたいんだよ。さっちゃんの足形の下で、僕は瞑りたいんじゃよ」
颯子は最初拒否していたが、山村聡の熱意に負けて、足形を取らせることにした。この方法というのが、拓本を取るやり方で、颯子の足裏に朱墨を塗り、そこに和紙を乗せて、タンポで擦っていくというものであった。
これに熱中する山村聡。
「そんなに一生懸命になっちゃ体に悪いわよ」
「なに。そんなことはないさ。とにかく最高の一枚を手に入れなきゃね」
夜も更け、やがて空が白んできた。あくびをする颯子。部屋の床には拓本を取った和紙が散乱している。とそこへ、誰かの声が聞こえてきた。
「誰か来たわ」
颯子はとっさに姿を消した。部屋に入ってきたのは、奈良へ行っていた長女と佐々木であった。
「お父さん!どうしたんどす!」
「大旦那様!」
「く、苦しい・・・」
東京の家。お婆さんと次女。
「わたし、石工屋にこの足形を掘ってくださいなんて言うの嫌よ。恥ずかしくて」
「なに。お爺さんにはね。石工屋さんは旅行に行っていて、いませんでした、なんて言っておけばいいんだよ。どうせもうわかりゃしないんだから」
医者が山村聡の部屋から出てくる。その話を聞いている川崎敬三。
「命に別状はありませんがな。すでにボケてしまっている患者の性に対する執着が、患者を生かせているんですな。ところであの音はなんですかな」
「はい。庭にプールを作っているんです」
庭では重機が土を掘り起こし、容赦なく石灯籠を薙ぎ倒していた。
山村聡の部屋。そこには無数の颯子の拓本が床に散らばっている。窓が開いていたのだろか。どこからともなく風が入ってきて。その拓本が宙を舞い始める。
恍惚の表情を浮かべ、その拓本を追いかける山村聡。そこに被さる「完」の文字。
当初は山村聡の痴呆がどんどん進み、人格崩壊していくのではないかと思っていたが、そこまでには至らなかった。しかし、ラストの山村聡の姿を映し出しただけで十分であっただろう。
山村聡の怪演に応えた若尾文子の演技も素晴らしいものがあった。
お爺さん、颯子のどこまでも深い関係は、今という時代になにを投げかけているのだろう。
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