アマ映画。
この場合のアマは尼でも海女でもいい。とにかく60年代の邦画界では、アマ映画が一種定番のように流行っていたようだ。
そこは京都の禅宗における尼寺。そこに訳あって女子高生の安田道代は預けられた。
そこの庵主が若尾文子。そして弟子のオバはん尼がいて、掃除や洗濯などの世話係の婆さんがいる。
安田道代は若尾文子の庵の本山にあたる寺の老師、そして叔父と一諸にやってきたが、はやくも枯山水庭園を歩き回り、オバはん尼に怒られた。
安田道代は伊勢湾台風で両親をなくし、叔父の家に預けられたが、そりが合わず最後には刃物沙汰まで起こし、若尾文子のもとに預けられたのだった。
しかし尼寺の食事は質素、勤行もしなくてはならない、掃除もしなくてはならない。そんな生活に嫌気がさし、安田道代は尼寺を飛び出してしまった。若尾文子はそれを引き止めもせず、じっと見つめるのであった。
鉄くず工場前を歩く安田道代。
そのとなりのドラム缶置き場である倉庫を開けると、そこではご機嫌なやつらがエレキをやっていた。そのリズムに合わせて躍る安田道代。
やつらがひとしきり演奏すると、みんなはペプシやバヤリースオレンジを飲み始めた。
「なんだよ。最近、めっきり顔みせなくなったじゃんかよ」
「尼寺に預けられたんや」
「へえー。おまえ尼さんにでもなるつもりか」
「冗談やないわ。尼さんなんて、辛気くさい。もうおもろないんで、飛び出してきたん
や」
「あ。俺たちさ今度、公会堂のエレキ大会に出場するんだよ」
「なんや。ご機嫌やないか!」
続いてジュークボックスから、またしてもご機嫌なエレキサウンドが聞こえてくる喫茶店。どうも安田道代とバンドのギターのやつはマブダチのようだ。
「おまえ。飛び出したはいいけどさ、帰るあてはあるのかよ」
「叔父さんのとこに帰るからええわ」
そういって叔父のやっている店の前までやってきたがすでに夕方。
店はちょうど雨戸を閉めている最中で、安田道代はばつが悪いことも手伝って叔父のところに帰ることはできなかった。
この作品が面白いところは、66年公開というところにある。
ちょうどこの頃、日本のヤングたちは押し寄せるエレキブームに夢中になっていた。最初は尼寺のなかだけの密室劇風な作品と思っていたが、安田道代が寺に入ったり出たりすることによって、寺、エレキ、寺、エレキのような連環を描いている。
その頃、尼寺の台所ではオバはん尼と婆さんが、安田道代のことを心配していた。
するとその勝手口に現れた安田道代。
「まあ。あんたはん。一体、いままでどこほっつき歩いとたっんどす。ほんまにもう心配するやないの」
そう小言をこぼすオバはん。安田道代は下を向いている。そこに若尾文子が現れ、
「もうそのへんでええやないの。和恵はん(安田道代のこと)。お腹空いたやろ。もうきょうはご飯食べて、お風呂に入って寝てしまいなさい」
そう言うと文子は自分の部屋に戻っていった。
そして湯船に顔を沈める安田道代であった。
尼寺では文子が書道教室を開いていた。
その生徒のなかのむっちゃいい着物着た娘が、やたらと文子に馴れ馴れしくしてくる。
「もう先生。じっくり教えて下さーい。わたしの手を取って、教えて下さーい」
それを見ていた安田道代は、文子が金持ちの子にえこひいきしていると思い込み、やにわにその娘の着物に墨を塗り付け、またしても尼寺から出て行ってしまった。
安田道代が向かった先は、件の喫茶店であったが、そこには仲間は誰もおらず、尼寺に引き返すほかなかったが、店にいたマッシュルームカット以下三人は、ちょっとぐっとくる安田道代に目星をつけていた。
尼寺に続く藪原のなかに安田道代を誘い込み、マッシュルームカットは腰にぶら下げていたラジオのスイッチを入れる。するとまたもや聞こえてくるエレキのリズム。そのつんざく狂騒のなかで、安田道代はシミーズ一枚にされ、男たちに犯されそうになっていく。そこに声が聞こえた。
「誰。誰やの。そこにいるのは?」
それはちょうど散歩に出ていた、文子の声であった。逃げる男たち。文子に泣きすがる安田道代。
その後、安田道代は文子の部屋で説教を受ける。
「だいたいあんたがあんなエレキなんていう不良仲間とつき合っているからこんなことになるんどす。あの時、わたしが散歩をしていなかったら、どうなっていたと思うんどすか」
「庵主はんはエレキを聞いたことがないから、そう言うんどす。エレキ聞いたらなんやこう胸がどきどきしてきて、体が勝手に動き出すんどす」
「せなこと言うて、エレキばかりに夢中になって勉強もせんと」
「もうエレキはお経なんかよりも、ぜんぜん楽しいもんだすから」
「お経とエレキと比べられたらかなわんわ」
「せや。こんどうちの仲間が出場するエレキ大会があるんどす。一諸に見にいきまへんか?」
「そんな。けったいな」
だが次のシーン。公会堂のエレキサウンドとファンたちが上げる悲鳴の狂騒のなかに尼姿の文子があった。なんや。やっぱり見に行ったんかい!
その場で繰り広げられていることに文子は目が点というか、茫然自失という感じ。かたわらでは安田道代が踊り狂っている。
そんでバンドのやつらが持っている機材がいい。テスコやグヤトーンと言ったメーカーのギターやベース。エルクのアンプ。今ならビンテージものとして高値で取引されるだろう代物。
尼寺に戻った二人。
「庵主はん。エレキ、どないでした」
「どうもこうも。わたしはこの世界にあんなもんがあるんやと、きょう初めて知りました。そしてあなたたち若者が、どうしてエレキに夢中になるのかも。わたしもエレキを聞いていて、なんや胸が苦しくなるような気持ちになってきたんどす」
「そんなら庵主はん。エレキを認めてくれはるの?」
「この寺の日常も現実。エレキも現実だす。その代わり、エレキだけでもだめだっせ。ちゃんと勉強もせなな」
そこから文子は自分も孤児だったということを明かし、安田道代は自分も尼になりたいと文子に胸襟を開いていくのだった。
しかしやはり若尾文子は、尼だろうがなんだろうが美しい。
いや。逆に若尾文子が尼をやっているがゆえに美しいと感じるのだろうか。さすがに頭がつるっぱげではなく、尼さんが頭に被るやつ(なんて言うの?)を着けているのだが、これでつるっぱげの若尾文子を拝むことができたら最高だっただろう。
以降、安田道代は寺の勤行にも参加し、掃除もし、質素な食事にも文句一言いわず、寺から高校に通うようになり、すっかり文子を信頼しているのであった。
しかし夢にまで見た不幸は、一本の電話から始まった。
本山の老師が倒れ危篤だと言うのだ。この作品を見ていて思ったことの一つにテンポの速さがある。普通だったらここで、病室にいる老師とか、老師の葬式の様子とか描いてもいいと思うが、そうではなくもう次のシーンでは、本山に新しい坊さんが就任してきて、文子とオバはん尼が挨拶にきている。
そして、その新しく就任してきた坊さんこそ、誰あろう、我等が城健三郎なのである。
いや。城健三郎こと、我等が若山富三郎なのである。
66年当時、若山富三郎は落ち目の三度笠で、東映では目が出ず、弟・勝新太郎を頼って大映にやってきた模様である。そしてこの大映時代、芸名も城健三郎と変えていた。タイトルバックの出演者に、城健三郎と出て(新スタア)、と入れているくらいだから、大映もなんとか若山富三郎、おっと城健三郎を売り出そうとしていたと見えるが、その狙いは海の藻くずと消えたと見える。
文子が挨拶に行った時、若山富三郎(以下、トミー)はねばついた、ダークな、イービルな視線を文子に送った。
実際、尼寺に帰るとオバはんは、
「なんや。今度きた和尚はん、わたし好かんわ。もう脂ぎったやらしい目つきして」
と言い、トミーのイービル性を本能的に嗅ぎ取っていたとみえる。
文子は尼寺のお茶会で使う茶碗を借りにトミーのもとへ来ていた。
そして二人で、その茶碗をしまってある蔵に向かう。必死に茶碗を探す文子。暗がりの中、その白い腕が伸びる。踏み台の上で動く、華奢な足下。蔵の扉をすっーと閉めるトミー。
と、やにわに文子の体に抱きすがるトミー。
「な、なにをするんどす!」
「なにをって一目見たその時から、わしはおまえが欲しかったんじゃ!」
力づくで文子に襲いかかり、その首筋に吸い付くトミー。もうエロ坊主とか生臭坊主とかじゃなくて、盛りの着いた獣のように文子を犯してゆくトミー。発情しちゃっているトミー。
文子とトミーは肉体関係で結ばれた・・・
この作品を見ていて、ある映画を思い出してしまった。
『尼寺(秘)物語』。こちらは東映の作品で、主演は藤純子である。ここにもトミーはエロ坊主、生臭坊主、クソ坊主として出演していて、またまた発情してしまい尼である藤純子を犯して、犯して、犯しまくるという、あまりにもGood Job! というかトミーの他に盛りのついちゃっている坊主やらせたら右に出るものはいまいというか、しかもその犯されちゃう相手が、若尾文子だったり藤純子だったりという、日本を代表する名女優、大女優である訳だから凄過ぎ、と言おうか、もう若尾文子にしても藤純子にしても役とは言え、若山富三郎に犯されたということは消してしまいたい過去なのかも知れないが、若山富三郎としてはどこぞの楽屋で、大部屋俳優たち相手に、
「あの時、文子はな」
とか、
「純子はまだうぶかったから、てこずったわ」
なんていうことを、ぶっちゃけていたかも知れない。それでそんな話を山城新伍辺りが記憶に残していたが、アルツハイマーに犯され、その記憶も忘却の彼方に消えていったのかも知れない。
トミーに犯されたということを誰にも言うことができず、一人風呂場で水を浴び、身を清める文子。しかし尼寺にお忍びでやってきては、抵抗する文子を犯すトミー。この時、トミーはいいこと言った。
「人間一度地獄まで堕ちてみにゃほんとの仏さんの教えは分らないんじゃ!」
文子も生身の女だった。
寺の本尊である阿弥陀如来の前に座し、懺悔はしてみるものの、彼女のなかでうずき、動き始めたなにかが彼女を引き返すことのできない道へと進ませ、その道はトミーの寺へと続いており、またもや二人は肉体関係を持つのであった。
若尾文子の露出が多いという訳ではないのだが、もうトミーがノリにノリまくって若尾文子の首筋に吸い付き、若尾文子もトミーの坊主頭を恍惚の表情を浮かべながら撫でるという邦画史上類を見ないシーンが展開される。
それにただでさえ特徴のある彼女の声が、喘ぎ声に変わっているのだから、その妖婉さは何倍にも増している。
清廉潔白で純粋だった尼僧から、破戒僧、堕落した一人の女へと変貌してゆく様を見せつける。
だが多感な時期の安田道代は、やがて二人の関係に気づき出し、若尾文子を詰問する。
それにまともに答えられない若尾文子。絶望した安田道代は尼寺を飛び出していってしまう。
なおも発情しているトミーは、文子の体を求め、文子もその快楽の中に溺れていったが、文子はトミーに妊娠していることを告げる。
「なんでそんな大事なことを言わなかったんや」
「ねえ。わたしたち結婚しましょ」
「結婚って、そんな二人とも、これから将来がある身やないか。そんな坊さんと尼さんか結婚って、えらい世間の笑い者になるで」
「世間なんてどうでもいいじゃない。愛があれば、どうにかなるじゃない」
「愛ってそんな。だから、えらい笑われ者になるだけやちゅーのに」
「じゃあ。あなた最初からわたしのことを玩具としか考えていなかったの?」
「玩具もなにも、おまえが好きだから、なんやええ女やなと思って、その・・・」
「わたしのお腹の中には新しい命がいるのよ」
「だから今はよしなさい。大津のほうにわしが知っている産婦人科があるから。紹介するから」
「分ったわ・・・」
二人はそんな男と女の間では、ありがちな会話を交わした。 静かに波だっている湖の水面。
そこに小さな小舟が見える。その上で何かを引き揚げている男、二人。静かな静かな画面。そしてアップで写し出されたのは、まぎれもない若尾文子の死顔であった。
ここのところ、この作品の監督、三隅研次の作品を何本か見ているが、いろいろな才能を持っている人だということが分る。時代劇から現代劇まで、そしてその映像世界は、このシーンのように基本的に耽美主義的なものではないかと思える。
たちまち週刊誌には、「尼僧謎の水死」という見出しが載るが、トミーは自身に関する悪い噂は封殺するように動き回る。
週刊誌をエレキ仲間から見せられた安田道代はショックを受け、尼寺に戻るが、そこにはすでにお骨となっている文子しかいなかった。
「あんたへの書き置きなんよ」
そう言って彼女はオバはんから、文子が遺した手紙を渡され、それを読んでみると、ことの真相、トミーとの肉体関係を持って以降のことが洗いざらい綴られていた。
真っ昼間から寺でワインを飲んでいるトミー。その庭先に安田道代が現れる。
「なんじゃい。おまえ」
「おっさん。ちょっとそこまで顔貸してえな」
竹やぶにトミーを誘う安田道代。
「わたし知ってんねんで。おっさんが庵主さんを孕まして、それで庵主さんそれを苦にして死にはったんや」
「また。この娘はうまい作り話しくさって。ほんま。かなわんわ」
「庵主はんがわたしに書き置きを遺しはったんや。そこにおっさんとのこと洗いざらい全部書いてあるで」
「なにっ!」
とっさに安田道代の首を絞めようとするトミー。鋭い視線を送る安田道代。
「あっ。はっ。冗談や。冗談。それでその書き置きはどこにあるんや」
「無くさないようにしまってあるわ」
「なっ。なっ。今度、ドライブしよか。なっ」
こうして二人はドライブすることになった。そしてここから安田道代は、不良少女としての側面を再び見せるのだが、やはりこの作品、若尾文子もいいのだが、安田道代もいい。なんでもこの時、彼女は20歳で、しかも大映出演第一回目。それなのにきちんとシーンに応じて、姿を変えてゆく。時にはエレキにしびれる不良少女。時には若尾文子に甘える純粋な女の子。そしてこのあとは、エロ坊主、クソ坊主のトミーをたらし込んでゆく。
ドライビングシートに座っているトミーは、ベレー帽なんか被っている。
「なんや。おっさんの運転いかすやないの」
「そやろ。もう仏教も古くさいのはなしや。なんでもこうな近代的にやらなあかんやろ」
言うやいなや、安田道代はそのハンドルを回し、あわや大事故につながるところであった。
「むちゃするガキやな。ほんまに」
湖畔の温泉旅館。
そこで二人は鍋をつつきながら、酒を飲んでいた。
「こう見えても未成年なんやでー」
「なんや補導経験があるらしいな」
「そや。ビール飲んで、バーで暴れて逮捕や。ハハハ」
またもやイービルな視線を安田道代に送り、抱きつこうとするトミー。すかさずそれを翻し、部屋の中を逃げ回る安田道代。
「待て。すばしこいやっちゃな」
「そないに慌てんでもええわ。どっちみちここに泊まるつもりできているんやから」
「ほんまか。ほんまにか?」
「ほんまやって。しつこいなー。それより外でも散歩せえへんか」
「あっ。ああ」
夜の湖にかかる橋の上を歩いている二人。
「あれ。おっさん。あそこになにかいる」
「なにが」
「ほら。あそこ、あそこ、あそこ」
「んーっ」
トミーが欄干から身を乗り出した瞬間、安田道代はその足首を持って、一気にその体を湖に叩き込んだ。ほんと、もみ合うとか、取っ組み合うとかなしに、あっけなく叩き込んだ。そうなるだろうとは分っていたが、あまりのあっけなさに爆笑してしまった。
そして若尾文子の墓前に手を合わせている安田道代。そこに聞こえてくるパトカーのサイレン音というところでラスト。
普通、大映の作品というと、娯楽作であれ、文芸ものであれ、なにか重たい感じがするのだが、この作品は終始それを感じることがなかった。それは何故か?
尼とエレキの絶妙なバランスがなせるわざか?いや。やはり若山富三郎、おっと城健三郎の存在は大きいだろう。
繰り返しになるが、あの若尾文子を盛りのついた種馬みたいに犯して、犯して、犯しまくる!その事実が映像として記録されただけでも、この作品の持つ意義は大きいだろう。
「文子はいただいちゃったよ」
そんな若山富三郎の含み笑いが聞こえてきそうである。