映画学校に通っている頃、脚本製作の課題があり、講師から加藤泰監督の『炎のごとく』を読むように勧められ、加藤泰は以前から好きな監督だったので、神保町で「シナリオ」のバックナンバーを探し、読み始めた。
脚本は加藤泰自身によるもので、そこで描かれている人間劇に胸を打たれ感動すると同時に、己の非力さを痛感した。
話は幕末の京都で活躍した俠客・会津小鉄を主人公にしたもので、小鉄の視点から動乱の京都が描かれている。
しかもその会津小鉄に扮するのは、菅原文太。いやがおうでも見たいと思っていたが、映画館で上映される機会もなく、ソフト化されていないのか、レンタルなどで探しても、探し出すことはできなかった。
そして菅原文太は逝った。
なぜそうなのか分らないが、各映画館の追悼特集などでも、この作品はかからない。だが、時代劇専門チャンネルが、急遽この作品を放送した。
録画したブルーレイディスクを再生すると、会津小鉄に扮した菅原文太が現れた。いや。それは自身の前に蘇った菅原文太だとも言える。
それは中山道の信濃路あたりであったのだろうか。渡世人との喧嘩でひん死の重傷を負った仙吉(会津小鉄の本名)は、瞽女のおりん(倍賞美津子)に背負われて、隠し湯に連れて行かれる。
そこでおりんは仙吉を手当てしてやり、やがてふたりは愛し合うようになる。
仙吉は大阪出身の男で、もともとは呉服屋の若だったが、傷害事件を起こし、大阪を三年所払いにされていた。
さらに旅往く仙吉とおりん。
だがある雨の日。間道で尊王攘夷の志士を名乗る強盗に、有り金全部出せと脅された挙げ句、おりんは慰みものとして連行されそうになり、仙吉が肩に蓑を巻いて担いでいた愛刀、小鉄も奪われそうになったことから、仙吉はその小鉄を抜き強盗たちを斬り殺してしまった。
雨が叩き付ける地面に、強盗の首のアップが倒れ込んできて、その首から鮮血が噴出すると、雨で溢れた路面が赤く染まってゆく。
「わいはおなごに惨いことするヤツ大嫌いや!騙すヤツ大嫌いや!」
ことある毎に仙吉はそう声を荒らげる。そしておりんを幸せにすることに賭ける。
強盗の一人が持っていた土鈴を仙吉が捨てようとすると、おりんはその腕を止め、自身の身につけ始める。
ふたりはそれから京都を目指す。
京都にやってきた仙吉・おりんは当時京都で顔役として鳴らしていた口入れ屋・大垣屋精八(若山富三郎)のもとを訪ねるのだが、仙吉は定型の仁義を切るのが苦手だと言って、おりんに玄関先で三味線を弾かせて、その調子に乗って仁義を切ろうとする。
「ごめんなすって」
「ごめんなすって」
リズムに合わせて、身体を揺らす仙吉。応対する若山トミーの若頭、藤山寛美もつられて踊り出しそうになる。
この作品で文太がどのような表情を見せるのかと思ったのだが、全体を通して言えることは、「仁義なき戦い」における、いつ終わるとも知れぬ抗争の中に、苦悶の表情を浮かべる広能昌三というよりは、「まむしの兄弟」のそれであったり、「トラック野郎」の一番星の桃次郎のような、憎んでも憎みきれない、無茶もやらかすが筋も通す、という一面を仙吉の中にも体現している。それでいて、仙吉は高い所が大の苦手。
その仙吉。トミーを前にして、自分は子分にしてもらいたい訳でもなく、縄張り内で賭場を開きたい訳でもなく、ただおりんを幸せにすることに賭けたのだから、親分の開く賭場で行商をさせて欲しいと願い出る。
「なんや。けったいなやっちゃな」
「気に入った。気に入りましたでえ。あんさんのおなご一人を幸せにさせてやりたい言う心意気が気に入った」
そう言ったのは眉毛を剃り、お歯黒を塗った大垣屋の妻、中村玉緒であった。
そうして仙吉は大垣屋の賭場で、いなり寿司なんかを売り始めるのだが、そこにジヤガラのなんとかとか言う荒くれ者が現れ、カタギの衆に迷惑かけるわ、女を犯そうとするわ調子こいて暴れるのだが、仙吉はとっさに目の前にあった包丁を握り、ジヤガラの土手っ腹に突き刺すと、ジャガラはあっけなく絶命した。
怒髪天に上り仙吉を叱り飛ばす大垣屋。
とにかく、人殺しは人殺しやないけ、とか、そりゃおまえはジヤガラ殺していい気になっているかもしれんけど、おりんさんの心持ち考えたことがあるんけ、とか言っているのだが、トミーの台詞に勢いがあり過ぎて、何言っているんだか分らない。
だが、最近こういう台詞に勢いのある役者という存在に巡り会っていない。見ている者を有無を言わさずねじ伏せる。そんな役者に巡り会っていない。
その頃、京の町では尊王攘夷派が暗躍し、幕府の役人やそれに連なる岡っ引きなどが次々に暗殺される事件が頻発していた。
四条大橋の上からおりんと一諸に焼きもちを食べながら河原を見つめていた仙吉は、あることを思いつく。
誰の縄張りでもない河原に小屋をかけ、そこで賭場を開こうと言うのだ。
さっそく手はずを取り、小屋を建てたのだが、手伝った焼きもち屋のおっさんは、仙吉がここで賭場を開こうとしていることに気づくと血相を変える。
「あんさん。ここで賭場開こういいまんの?そりゃ無茶でっせ。この京では鴨川を挟んで西が大垣屋。東が名張屋の縄張りって決まってまんのや」
「せやから河原に賭場開こう言うんや。河原なら誰の縄張りでもないやろ」
「ほなこと言うたかて。わてほんまに知らんからな」
その頃、名張屋新蔵(藤田まこと)の玄関先で仁義を切っていたのは、東映が誇る怪優・汐路章であった。
焼きもち屋のおっさんの心配をよそに、仙吉がにぎにぎしく賭場を開くと、仙吉のジャガラ殺しの件で、すっかり仙吉に惚れ込んだふたりが子分にしてくれとやってきて、あれよあれよと差配してゆき、仙吉も細かいことはどうでもいいやと、客も増え始めじゃんじゃん稼いでゆく。
そこへ名張屋の子分たちが入ってきて、
「誰じゃーい!こんなところに賭場開きおって!」
と横やりを入れてきたが、仙吉はなにが悪いんだとばかりに、
「わしじゃーっ!文句あるいうなら相手になってやろうやないけーっ!」
と気勢を挙げる。その勢いに飲まれたのか、名張屋の子分たちは帰って行ったが、そのことを大垣屋トミーに告げると、これまた何言っているのか分らないくらいに、鬼神のごとく激怒して、
「河原は誰の縄張りでもない!?そな屁理屈抜きさらして、尚更おまえのもんでもないわい!桓武天皇以来、京の町衆みんなのもんじゃ!都の山紫水明の表看板じゃ!そな小屋潰してまえ!」
と仙吉を叱責するが、仙吉が姿を消すと、
「あのガキ、なかなかオモロいやっちゃ・・・」
と呟くのであった。
やがて京に守護職として入洛してきた会津藩・松平容保(小倉一郎。ワンカットだけの登場)とほぼそれを警護するチーマーのような新撰組がやってくる。
仙吉は京の長屋におりんと一諸に住んでいて、近所の八百屋の大将夫婦と、その娘であるあぐりと仲良くしていた。
そこへ大阪時代の同輩である岡八郎と、その後輩である国広富之が新撰組隊士としてやってくるが、岡八郎はお調子者で、国広富之は初々しい、逆に言うと世間知らずな若者であった。
そんな長屋の暮らしの中で、仙吉と子分になったふたりは、河原の賭場で稼いだ銀二貫でいい気になって、おりんが作った料理を食べながら酒を飲み、いいこんころもちになり、かっぽれを唄い騒いでいた。
やがて仙吉はふたりに金をやり、
「どこぞで女とでも遊んでこーいっ!」
と言うと、銭函から金を取り、それをおりんに渡してやり、
「これでなんでも好きなもんこうたらええ。おまえの好きなもんこうたらええんや」
と言うと、そのままおりんの膝枕の上で眠りに落ちて行った。
と、そこへ。汐路章を含む四人が乱入してきて、仙吉を襲おうとするが、とっさにおりんが仙吉の上に乗り、その身体をかばおうとする。だが、汐路章一党は構わずおりんに殴打の連発を喰らわせ、さらに仙吉の小指を切断する。
雄叫びを上げる仙吉。
「わいはジャガラの敵討ちにきたんじゃーっ!」
と、汐路章。小指から鮮血をしたたらせつつも小鉄を抜く仙吉。彼の中にある何かが指の激痛を忘れさせ、猛然と汐路章一党に斬り掛かってゆく。
くんづほずれつの斬り合い、肉弾戦が展開されるなか、近所の人たちが騒動に気づき、汐路章一党を仙吉の家から追い出して行く。
「仙吉!おまえの命、必ずもらうどーっ!覚えておけよ!」
はたっと気づくとそこには息が絶えているおりんの体があった。
「おりん!おりん!」
愕然となり、その体に抱きつく仙吉。
「おりんさん。痛かったやろ。つらかったやろ」
そう言って手ぬぐいで、おりんの顔から血を拭き取ってやる八百屋の女将。あぐりの頬に涙が伝う。
「仙吉のアホーっ!アホや!おまえは!」
と八百屋の大将。すると仙吉は小鉄を手に取り一散に走り出す。
名張屋の土間で叫ぶ仙吉。
「今、わしの家に来て逃げて行った四人がここにおるやろ!そいつらをはよ出さんかいっ!」
そこには名張屋をはじめ、高田浩吉や大友柳太郎(新門辰五郎)と言った親分衆が顔を揃えている。
その親分衆を前に仙吉は、四人を出せ、女房を返せとてこでも動かない。むしろ殺ってやるぐらいの勢いである。
四人のなかの三人は確かに名張屋にいたが、汐路章はすでに遁走していた。
なおもわめき散らす仙吉。そこへ大垣屋が現れ、仙吉を諭す。
「タダ、思いつきや。欲や。功名心や。お前が我慢ならなんだ奴らと同じにお前がなりかけていた。お前はそれに気がつかなんだ。おりんさんな、死んで、そのお前の間違い、教えてくれたん違うか。違うか・・・」(脚本より)
腰を落とし号泣しはじめる仙吉。夜の戸の向こうでは、からっ風が吹いている。
この若山富三郎がいい。普段は仙吉に厳しいが、ここでは父性の優しさのもののようなものを示し、とっくりと仙吉を諭す。
そして河原の賭場から号泣するまでの菅原文太である。
「キネマ旬報 菅原文太追悼特集号」で、宮沢章夫はこう記している。
「おそらく、深作欣二は、その身体(文太の身体)を獲得したからこそ、「仁義なき戦い」の新しさを表現できたのではなかったか」
この作品でも時に豪快に笑い、時に疾駆し、咆哮し、斬り掛かり、そして号泣する菅原文太。
その身体は邦画界、いや映画界において、独特のと言おうか、むしろ特異な存在だったのではないか。
最近、とあることから起記神話におけるスサノオについて考えている。スサノオも神でありながら、おのが内面を直情的に現す。それは母恋しさに号泣し、乱暴狼藉を働き、女神を殺戮したと思うかと、大蛇を退治し、唄を詠むという多面性を持って現される。
このことに示されているようにスサノオは、パンキッシュな神だ。
なかばこじつけなのであるが、菅原文太もパンキッシュな俳優だったのではないだろうか。
その身体は明らかに鶴田浩二のものでもなく、高倉健のものでもなく、三船敏郎のものでもなく、渥美清のものでもなく、菅原文太として屹立していた。
だがその身体はすでにこの世にはない。しかし映像の中で脈打っている文太の身体を確かに見ている。永遠に生き続けるとは、こういうことではないだろうか。
話を作品に戻すと、大垣屋は口入れ屋として、会津藩に協力してゆく。その頃、仙吉は久しぶりに郷里、大阪の呉服屋に顔を出した。
「あっ。若。若やありまへんか!若のお帰りだっせー!」
すると奥から育ての親である祖父、祖母が現れ、喜びにむせ返る。
奥の間にゆくと知らない娘がいて、
「この娘、誰でんの?」
と聞くと、仙吉と祝言を挙げる為に養女にしておいたお富という娘だと言う。仙吉としては、気まぐれ程度に帰った大阪なのに、祖父、祖母は店を継いでくれるとばかり思っていて、仙吉は京都に逃げるように帰る。しかしお富は押し掛け女房のように京都にやってきてしまう。
このお富というキャラがまたいい。仙吉がおりんの面影を忘れられず、その形見の土鈴を小鉄の鞘に取り付けている、ということも承知で小鉄を愛そうとする。
そんなふたりは鞘に納まるまですったもんだがあるのだが、京から大阪まで続く船の渡し場で小鉄がお富を送ろうとすると、お富は、
「あんさん。今、おなごに惨いことしてはります」
と、きっと言い渡す。
その船着き場には馬がいて、そのまさにホースのような性器から大量のションベンを放出している。
しかもそれをローアングルから狙っている。
このカットだけではなく、作品の要所要所に必ずローアングルがくる。例えば冒頭のおりんと仙吉が温泉に入っているシーン。ここではどうやって撮っているのか分らないが、画面下半分が水中になっている。水中カメラを使っているとは思えないのだが、ここまで加藤泰がローアングルに拘る理由とはなんであろう。 これは加藤泰監督の特色の一つで、加藤泰的映像文法とでも言ってよく、どの作品でも必ず用いられ、カメラ位置を地面掘ってまで決めろと言ったことは、有名な逸話である。
例えばそれは代表作だろうか?藤純子の「緋牡丹博徒」シリーズでも多用されるのだが、馬がションベン垂れ流しているところさえもローアングルで押さえるとは思わなかった。
そして加藤泰は女優を美しく撮る天才でもある。この作品でも倍賞美津子、お富役のきたむらあきこ(他ではまったく見ない女優だが)、中村玉緒、あぐり役の娘と美しい。
だがそれは単に表層的に美しいということに収まらずに、その女の人格が凛としている、例えば「緋牡丹博徒」のお竜のように、そこまでを含めた美しさだ。
その頃、新撰組の芹沢鴨は、京の町でやりたい放題やっていた。町の警護と称し、女を漁りまくったり、通行人から金を巻き上げたりしていた。
自分は幕末史にはあまり興味がなく、新撰組をテーマにしたドラマや映画、小説の一つも見聞きしたことがないのだのだが、とにかく芹沢鴨が悪の権化のように描かれている。
かと言って一方の近藤勇(佐藤允)もいいもんに描かれているかと思うとそうでもない。終始物語は、仙吉や八百屋の大将夫婦など、町の衆たちの視点で描かれている。
自分が幕末をテーマにした作品に興味がないのは、それが尊王攘夷の志士であれ、新撰組であれ、一種のヒーロー史観を感じるからなのだ。
歴史に名を残した人物に、その時代の歴史を仮託することは容易いが、その背後には名も知らぬあまたの人間たちの生活があり、また歴史があったはずだ。
そこを救い取らずして何を語るのか、という気になるし、逆に幕末ときて会津小鉄の視点でという着眼点に、加藤泰監督の才能と拘りを感じる。
一方、東映の絶倫帝王・名和宏は香具師でありながら、賭場を開いていて、そこに仙吉他二名がなだれこみ、大垣屋の敷き内で、香具師でありながら花会開くとはえげつないガキだと、お開きにされる。
この頃から仙吉は会津小鉄と二つ名で呼ばれるようになる。
東映の絶倫帝王・名和宏。近藤勇には佐藤允。若山富三郎。その女房に中村玉緒。おりんに倍賞美津子。
81年。配給会社は東宝。すでに五社協定とかなくなっていたのか。かつてだったら顔を揃えなかったであろう役者たちが出てきて、それも嬉しい。ちなみに丹波哲郎もワンシーンのみであるが、会津藩の重臣として登場する。
そのシーンで近藤勇以下、新撰組隊士と大垣屋精八以下、三の子分までの仙吉たちが相見えるのであるが、近藤は、
「いや。そんなに堅苦しくしないでくれ。わたしたちは京における友だちが欲しいだけなんだよ」
と切り出す。その後、近藤と仙吉は別室にて、さしで話し合う。
新撰組の隊士である国広と、八百屋の大将夫婦の娘・あぐりは恋仲になっていたのだ。国広はあぐりと一諸になれるなら、隊士を辞めて、八百屋の入り婿になってもいいと言い、あぐりは国広と一諸になれないなら駆け落ちしてもいいと、若い二人はフォーリン・ラブ状態だった。
「近藤はん。武士はおなごを幸せにはできまへん。佐々木はん(国広のこと)を自由にしてやっておくれやす。これ以上、おなごが不幸せになるの見たないんです」
「小鉄君。君の気持ちも分るが、今、新撰組には一人でも隊士が必要なんだよ。佐々木の安全は、必ずこの近藤が約束する」
その頃、仙吉の家に半ば居座りを決めてしまったお富は、家事をしながら、おりんの形見である三味線に手を合わせていた。
その玄関先に男の影が立っている。
「なんぞうちの人に用事でもありまんの。うちの人なら、会津はんの普請の仕事で昼はおまへんのどすけど」
じっーとお富を見つめるねばい目つきの持ち主は、仙吉を仇と狙う汐路章だった。なにも言わない汐路章。その姿が消えると、お富は気が抜けたように膝から崩れた。
とにかくぶいぶい言わせている芹沢鴨は、町で国広とあぐりとすれ違った時、はやくもあぐりに目をつけ、のちに国広を呼び出すと、あぐりを妾にするので今夜中に連れてこいと言う。
芹沢にそう言われただけでテンパってしまった国広に、神社の境内かなんかで芹沢の息のかかっている隊士が、
「佐々木君。それはまずいな。へたをすると、君の命も危ないんじゃないかな。そのあぐりとか言う娘のためにも、京を脱出するしかないんじゃないか」
と、さらに国広がパニくる言葉をかけたもんだから、国広は前後不覚に陥っていき、八百屋の大将夫婦、あぐりと一諸に仙吉が住んでいた長屋に隠れて、 「ここもいつ芹沢さんに見つかるか分らない。やっぱり脱出だ!脱出するしかないんだ!」
と口走り、あぐりも、
「佐々木はんが行く言うなら、うちも行きます」
とふたりで遁走を決め込んだ。
飯場帰りの仙吉たちが長屋の前を通ると、大将夫婦が呆然と立っている。
「どないしたんや?」
「芹沢はんがうちのあぐりを妾にしたいなんてむちゃ言い出しおって、それで佐々木はんとあぐり、脱出しかないゆうて出て行ったんですわ」
その話を一諸に聞いていた岡八郎隊士の顔面が、みるみるうちに蒼白の様を呈してゆく。
「おっ、どないしたんや?顔色悪いで」
「脱出って、新撰組は京の町を脱出したら必ず斬り殺される掟になっとるんや」
「なにい!?」
「それに脱出の話持ちかけたんわ。芹沢の息のかかっているヤツや。ふたりははめられたんや・・・」
「ド阿呆ーっ!!それでふたりはどっちにいったんじゃーっ!!」
小鉄を片手に走り出す仙吉。
「わいも近藤はんに知らせてくるわ」
と岡八郎隊士。
一諸にいた子分たちは仙吉の家に帰った。
声を上げるお富。
「それであんさんらは仙吉はん一人行かせて、帰ってきはったんですか!?」
「せやかて親分が、おまえらは明日の仕事があるからくるな言うて・・・」
「人の命がかかっている時に、それでもあんさんら男ですか!?」
ドスを手に取り、それを帯に指すお富。
「なにしはるんですか!?」
「あんさんらが行かない言うなら、あてが行きますさかいに!!」
走り出すお富。それに続く子分ら。
案の定、国広とあぐりのふたりは竹やぶを抜ける夜道で、芹沢以下の隊士に待ち伏せされ襲われていた。
次々に国広に刃を向ける隊士たち。それを高見の見物と洒落込む芹沢。
「は、図ったな」
「佐々木はん。うちにもうちにも刀を」
あぐりに脇差しを渡す国広であるが、情け容赦なく斬り捨てられ、追ってあぐりも抗うものの、その体に白刃を当てられる。
血まみれになりながらも、その手をあぐりの体に伸ばす国広だったが、こと切れた。
「女まで、女まで殺せと言ったかーっ!」
激高する芹沢。しかしやがて一同の姿は消えてゆく。その一部始終を竹やぶの斜面の上から、火縄を用意しつつ見ていたのは、誰あろう汐路章だった。
惨殺現場に走り現れた仙吉。
「あぐりちゃん!佐々木はん!」
変わり果てたふたりの姿に呆然とする仙吉。そこに近藤以下の隊士が駆けつけ、追ってお富、子分たちも現れる。
仙吉は振り向くと、近藤に向かって、
「おどれーっ!嘘つき新撰組!」
と言い放ち、小鉄を抜いて切り掛かってゆく。近藤も刀を抜き、刃を交錯させるふたり。
その模様をなおも見つめている汐路章。
「仙吉。ここがおまえの墓場じゃ。念仏でも唱えさらせ」
東映が誇る怪優・汐路章はそう呟くと、火縄銃の引き金を引いた。
仙吉の体をかすめてゆく弾丸。一瞬、近藤と仙吉の戦いが止まる。
「あんさん。鉄砲で人殺やろう言うなら、もっと狙いをつけなあきまへんで」
仙吉はそう言うと、一気に竹やぶを駆け上がり、汐路章の腹を横一文字に切り裂いた。膝から崩れる汐路章。その腹のアップ。やがてそこから鮮血がどくどくと溢れ出す。その態勢も崩れ、次に写し出される汐路章の死に顔。それも次第に画面下に消えてゆく。
国広、あぐりの死体を前にして土下座をする近藤。だが近藤は言う。
「美しい」
と。それに向かってお富が言う。
「なにが美しいんです。おなごの命は好きな男と添い遂げて、その方のややこ産んで、育て上げることにあるんだす。それも生きていればこそ・・・」
泣き濡れる一同。
芹沢一派を殲滅させるため、近藤一派はそのアジトを急襲した。そのなかには仙吉と子分たちも。
ふんどし一丁にざんばら髪になり、息も絶え絶えになる芹沢。最後の一太刀を浴びせろと、八百屋の大将夫婦を促す仙吉。
大将夫婦が芹沢ののど元に剣を突き刺し、抜くと、そこから鮮血が一気に噴出した。
小雪が舞う大晦日。女郎屋の前、そこにお縄にされ、ガクガク震えている浪人がいる。
「誰や。これ?」
「こいつか。こいつは人斬り以蔵や。ほれ。土佐の勤王の志士と恐れられた。それが今は公武合体や。落ちるとこまで落ちて、ゆすりにたかりに強盗や」
と、岡八郎隊士。こうやって記してみると、この作品における岡八郎の役割の大きさに気づく。
この以蔵を演じているのが東龍明。誰や、それ、の意見もあるだろうが芹明香主演の『トルコ渡り鳥』で、芹明香のヒモを演じていた俳優であり、この作品でも限りなく落ちぶれたテイストを醸し出している。
その以蔵に続いて連行されそうになるのが、遊女の〝東映城のお姫様〟の異名を持った桜町弘子。
「待ったらんかい!あのおなごの縄、解いてやらんかい!」
激高する仙吉。
「そなこと言うたかておまえ・・・」
「おなごがどんな男と寝ようと、罪はないやろ!はよ解いたらんかい!」
縄を解かれた桜町弘子は、以蔵に下駄を履かせてやり、羽織をかけてやるのだった。
東龍明はここでもヒモだった。落ちぶれたヒモの役やらせたら、この人の右に出る者はいないだろう。
そのまま仙吉は桜町弘子を家まで送ってゆく。その途中、仙吉の小鉄の鞘に取り付けてある土鈴を目にした桜町弘子の表情がこわばる。
そして家に入るなり、小太刀を抜き、仙吉に切り掛かる。
「父の仇!」
「訳ぐらい言ったらんかい!」
「勤王の志士であった父上は、糊口をしのぐたすきの為にその土鈴を作り売っていたのです!」
桜町弘子をねじ伏せながら、仙吉。
「誤解すな!その勤王の志士の親父は、強盗になっとったんや!わいの女房なぐさみものにしようとして、有り金全部奪おうとしたんや!せやから!せやから!」
「問答無用!親の無念を晴らすのは子の務め!」
だが非力さを悟った桜町弘子は、抗うことをやめる。
「わいは逃げも隠れもせん。相手せえ言うなら、いつでも相手になったる。その代わり今の稼業からは、足洗わんかい」
そう言って、桜町弘子の前に銭の入った巾着を差し出す仙吉。
と、言うように次から次にエピソードが起こり、それが伏線を通じて繋がっているので、二時間半という長い尺だが、途中でだれるということがない。
新撰組一党は、尊王攘夷の志士たちが集まっていた料亭を急襲した。世に言う池田屋事件である。
その斬り殺され、屋根から落下してくる志士の中に、女剣士の姿をした桜町弘子が。
「なんでやねん。なんでやねん」
そう呟く仙吉。池田屋から出てくる近藤勇に一瞥を送ると、桜町弘子の死体を抱き上げ、その場から去ってゆく。
一端は京の町を追われた長州だったが、再び京に攻め入ってきた。世に言う蛤御門の変である。仙吉は近藤勇に問う。
「なにも罪も咎もない町衆巻き込んで、なんで戦せにゃならんのです!?」
それに対して、近藤から返ってきた答えは、そこに敵がいるからというような、どこぞの政治家の答弁のようなものだった。
仙吉、ナレーション。
「わいは新撰組に賭けた訳でも、会津に賭けた訳でも、葵に賭けた訳ともちゃう。わいは大垣屋精八に賭けたんや」
やがて大砲が撃ち込まれ、廃墟と化してゆく京の町。その中で子分たちとも散り散りになってゆく仙吉。
戦いがひとしきり終わると、心配したお富が姿を現す。
「祇園は、祇園は無事だっせ。はよう戻ってきなはれ」 やがて子分たちも姿を現す。
「親分!親分!」 「あっ!」
その廃墟の中で、仙吉はおりんの幻を見る。仙吉の顔のドアップ。
「おりん! わいはまた新しいものに賭けるでーっ!」
浮かぶエンドマーク。
繰り返しになるが、動乱の幕末期を会津小鉄こと、仙吉という一人の俠客と、その周りの人々を中心に描いているのが素晴らしい。
少なくとも、この作品においては、勤王の志士よりも、新撰組よりも八百屋の大将夫婦のほうが重要な位置を占めている。
こてこての話と言えばそれまでだが、実はその〝こてこて〟であったり、〝くさい〟ものが、生半可な芸術などよりも、力強くほとばしるものがあるのだ。
そんな大衆性を加藤泰は、描き続けてきたが、この作品が監督の劇映画としての遺作だと言うことも意義深い。
81年。いよいよ邦画が斜陽化してゆくなかで、加藤泰監督は気を吐いた。
そしてとりもなおさず、波乱の時代を疾走した俠客・会津小鉄を炎のごとく演じ切った菅原文太。
この作品に文太の役者としての醍醐味が濃縮されていると言うのは、言い過ぎではないだろう。
そして彼自身も炎のごとく、人生を疾走したと思う。
加藤泰の到達点にして、菅原文太の隠れた、いや邦画の隠れた傑作だと思う。
偉大なる魂たちよ。永遠に・・・