1969年。谷啓はトワイライトゾーン、もしくはアンドレ・ブルトンが提唱した超現実主義の中を彷徨っていた。
またはそれを、日活と円谷プロが提携して製作した「恐怖劇場 アンバランス」と呼んでもいい。
とにかく郊外の公営住宅に住む、恐妻家にしてうだつの上がらないサラリーマンの谷啓扮する鈴木太郎は、いつものように家を出て会社である牛印乳業にやってくると、見知らぬ男が自分の席に座っている。
「すいません。そこ僕の席なんですけど?」
「はっ?ここは僕の席ですけど」
「僕は鈴木太郎で、そこは僕の席なんだ!」
「なにを言ってるんです。僕が鈴木太郎で、これは僕の席だ!」
これが夢にまで見た悪夢の始まりだった。
谷啓が難癖をつけている男が犬塚弘なのだが、他の社員たち一同は難癖をつけているのは逆に谷啓だと言う。そして他の社員たちは一同、谷啓なんか見た事もなく、相当に頭が壊れている人間だと言い出す。
「なんだい!こんな大掛かりな芝居打ちやがって!なんの嫌がらせなんだい!」
頭に来た自分が本物の鈴木太郎だと思っている谷啓は、赤信号も無視して家に帰った。
アパートの扉を開けると、そこにも犬塚弘がいて、嫁さん、息子と夕飯を食べている最中だった。
「あっ!この野郎!人の家までやってきやがって!なんのつもりなんだ!」
「なんのつもりってここは俺の家だよ!オマエまでなんだ!他の男、連れ込んだりしやがって!」
「ちょっと失礼ね!見も知らない人からオマエ呼ばわりされる覚えなんかないわっ!」
思わずビンタを喰らわす谷啓。
「ちくしょー!人の女房になにしやがるんだ!はやく警察呼べ!」
取っ組み合いになる谷啓と犬塚弘。やがてサイレンの音が遠方から聞こえ出し、夕闇の中、連行されていく谷啓。
「やめろーっ!やめてくれーっ!俺が本当の鈴木太郎なんだ!みんな、どうかしているんだーっ!」
うわさ話をしている近所の者たち。
「あいつですよ。朝からこの辺りをうろちょろしていたのは」
「気持ち悪いったら、ありゃしませんよ」
署の取調室で谷啓は、刑事の手をてこずらせることになった。
「いい加減に本当の名前を言ったらどうなんだ!」
「だから僕の名前は鈴木太郎なんだ!」
「本当の鈴木太郎はいるじゃないか!このへんで楽になったらどうなんだ!」
「いつものように家を出て、会社に着いたら僕の席にあいつがいて!そっからなにもかもがおかしくなっていったんだーっ!」
シーン変わり、のどかな茅葺き屋根の家並みが広がる村の全景。
谷啓はそのなかの一軒に入ってゆく。
「かあちゃん?かあちゃん?」
敷居をまたいで家に上がると、自分が写っているはずの写真の中に犬塚弘の姿がある。
鈴木太郎の全身に嫌な予感が走る・・・
その軒先に一人の野良着姿の女が現れる。
「母ちゃん。久しぶりだな」
鳩が豆鉄砲喰らったような顔をしている女。
「俺だよ。太郎だよ」
「・・・ギャー!助けてくれー!泥棒だー!」
一散に走り出す自分が鈴木太郎だと思い込んでいる男が、母親だと思い込んでいる女。
と、この文章を書いている瞬間の俺は、三上寛の名曲「オートバイの失恋」を思い出したのだが、それはひとまず置いておこう。だが、
オートバイ オートバイの失恋 オートバイの失恋が 今 全世界に波紋を投げ掛ける
という歌詞は、イカしているということだけは記しておこう。
村の衆から追われることになった谷啓は、肥だめにはまり、だがそこに身を忍ばせ隠れた。
夜。濡れて光る鉄道線路。
そこに身を横たえる谷啓。なにもかもに絶望した谷啓は、ここで自分の人生に終止符を打つ決意を固めた。
だが横を見ると、浴衣姿が雨に塗れ、身をすくめている若い女の姿が。
「き、君どうしたんだい?」
「かんけね」
「どういう理由があったか知らないけど、君みたいな若い人が死ぬなんて考えちゃだめだよ」
「あんただって死のうと思ってんでしょ」
「そうだけど精一杯生きてもみないで、死ぬなんて考えちゃやっぱりだめだ!」
だが結局、ふたりはお互いを紐で結びつけ、再び線路に横たわることに。やがて聞こえてくる車輪の力動音。
「いや!やっぱりオラ死ぬのこえ!」
逃げようとする二人だが、体が結ばれているうえに互いに逆の方向に逃げようとするから、混乱するばかり。
汽車のライトが見えてきた。汽笛の音が聞こえる。その時、紐がちぎれて二人は逆方向に吹っ飛んだ。
自分が生きているのを確認した谷啓。恐る恐る反対側に飛んだ娘の様子をうかがう。そこには自身は助かったが、流産してしまった娘の姿があった。
このシーンの、この娘を演じている吉田日出子がいい。例えるならなにか、つげ義春の漫画に出てくる娘のようなたたずまいを宿しているのである。
吉田日出子は集団就職で東京へ出て、ある学生と恋仲になったが裏切られ失意のうちに故郷へ帰り、線路に横たわった。
この作品のキーワード的キャラは吉田日出子と思え、以後谷啓とプラトニックな関係を保ち続ける。
そして谷啓はといえば、精神病院に強制収容された。
「俺はキチガイじゃない!俺はキチガイじゃないんだ!」
「ここに入ってくるヤツはみんな、そう言うんだ」
その自分が鈴木太郎だと思っている男の叫びも虚しく、著しくカリカチュアライズされ、限りなく透明に近いよだれを垂らし、山高帽を被っているハナ肇が、とっくに枯れている花に永遠に水を注いでいる精神病院の中、鈴木太郎は病院職員から〝鈴木二郎〟と命名される。
かと思ったら、面会にきたという東宝の脇役者と言ったらこの人、二瓶なんとか、とにかくウルトラマンの科学特捜隊の一人でもあった、俺のなかでは〝夢見さん〟と呼んでいる男が昆虫みたいなグラサンかけて現れ、
「三郎の兄貴。お疲れさまです。もうすぐここから出られますから、我慢していて下さいよ」
と言われ、自分が確かに鈴木太郎だと思い込んでいた谷啓の脳内は、コンフューズしていくばかりであったが、とりあえず流れに身を任せ、闇にまぎれて精神病院を脱走した。
あるいはそれは、確かなよるべを持たない現代人のアイデンティティーの漂泊なのだろうか。
夢見の案内によって三郎が連れて行かれたのは、塩沢トキが暮らすサイケデリックな内装を施したレジデンスであった。
「やーだ。ダーリン。お疲れさまー。もうわたし溜っちゃって、溜っちゃって辛抱たまらないのよー」
そういうとトキは、三郎にディープキッスを見舞うのであり、それによって三郎は窒息しそうになりながらも聞くのであった。
「ちょっと待ってくれよ。三郎って誰なんだい!俺は何者なんだい!」
「あーら。キチガイ病院に入っている間に、本当におかしくなっちゃったの?殺しのサプって二つ名を持った名うての殺し屋じゃない。もうすぐ親分もくるわよ」
「殺し屋?親分?」
と、そこへ河津清三郎の親分と、夢見、そして顔に傷のある大男がやってきた。
「おう。サブ。お疲れだったな。まあ前の仕事の音沙汰が消えるまでキチガイ病院にいてもらったが、どうだ元気か?」
まるで話が飲み込めていない、この間まで自分が太郎であると信じ込んでいた三郎。
「で、またオマエに仕事を頼みてえんだよ。なに簡単さ。牛印乳業ってあるだろ。あそこの御曹司が今度、ニューヨークから帰ってくるんだ。そいつを消して欲しいのよ。後がま狙っている専務に頼まれてな。そうしときゃあとあとこっちにとっても都合がいいし」
「消す?」
「そうよ。殺して欲しいのよ」
「や、やだ!そんな人を殺すなんて!僕にはできない!」
「何言ってやがんだ!コノヤロ!今までさんざん人ばらしてきたのに!コノヤロ!病院入っている間に、てめえまでキチガイになっちまったな!」
ほんとこの作品、キチガイ、キチガイの台詞が速射砲のように飛び出てくる。だが現在のように、それをオブラートに包んだり、ないことのようにしてしまっているよりは、よっぽど清々しい。
と、三郎がとぎまぎしている間に、顔に傷持つ男は太郎、いや二郎、いや三郎めがけナイフを投げようとしたが、三郎は体が勝手に動いてしまい、鏡台の上に置いてあったコルトガバメントを見事な手さばきで操り、そのナイフを打ち抜いた。
羽田空港。快晴。
牛印乳業内では、次期社長の座は専務と目されており、御曹司の出迎えに現れたのは、犬塚弘とブス社員のふたりだけだった。
タラップを降りてくる御曹司の姿。その人こそ誰あろう。なぺおさみであった!!
駐車場でなべを狙う三郎であったが、そこへなべのフィアンセが現れ、ふたりでオープンカーに乗り去って行く。それを追う三郎の車。さらにそれに続く夢見とナイフ男の車。
なべふたりに追いついた三郎は言う。
「はやく逃げなさい!」
「えあっ?」
そうこうしている間に、ナイフ男の車も追いついた。とりあえず取っ組み合いのふりをするおさみと三郎。
次の瞬間、おさみの胸に見事に突き刺さるナイフ。膝から崩れ落ちてゆくなべおさみ演じる四郎。絶命する四郎。
が、フィアンセは谷啓に向かって言う。
「四郎さん!大丈夫!?」
「えあっ?」
なべが死んだことにより、三郎と四郎は入れ替わっていた。のち新聞記事に、やくざ死亡、としてなべの顔写真が掲載された。
四郎は牛印乳業の社長の座を手に入れた。フィアンセが会社の大株主の娘だったのだ。
かつて、その会社の平社員だった四郎は、数奇な運命を経て、社長となったのだ。
しかし、もともと小心者のくせに四郎は、フィアンセの父親からハッパをかけられ、会社の合理化、収益倍増化を図り、社員たちを牛馬のように、まさに社畜として、会社は俺の物、そこで働く社員も俺の物としてこき使い始め、社員の飲み会にも牛乳を飲むことを命ずる。
やがて労働組合長が抗議にくるが、組合長には退職理由をでっちあげ解雇にするという、まさに現在のブラック企業のような荒れ果てた会社を作り上げる。
この作品が東宝喜劇の中にあって、異色だなと思うのは、そのシュールなストーリー展開もさることながら、現代人の生活、生き方をどこか斜に構えて見ているところにある。
植木等のサラリーマンものや、森繁久彌の「社長」シリーズは、同じ東宝喜劇でも、主人公は右肩上がりの高度経済成長と足並み揃えているのに対し、この作品の谷啓は、そもそもキャラに実態がなく、ころころ移り変わってゆく、人格や個性があるようでいてない、きのうまで俺だと信じていた自分が、明日には違う誰かになっている、
という、なにか現代人を暗号化しているように思える。
高級クラブでフィアンセとブランデーを傾けている時だった。豪華な装飾の中、ハープが奏でられている時だった。
ウェイトレスとしてやってきたのが、吉田日出子だった。運命的な再会を果たしたふたりだった。
吉田日出子のアパート。
「ずいぶん。安っぽいところに住んでいるんだなあ。ガスも引いてないのかい?」
「だってガスってバッて火が着くから、おっかねえんだもの」
その玄関先に解雇された組合長が、酔って現れる。
「ちくしょー!首にされたからって怨んできたんだなー!」
「おまえのようなやり方が、いつまでも続くと思うなよ!俺以外にも不満を持ってるヤツはたくさんいるんだ!」
「なんだオマエ!社長に向かって失敬じゃないか!」
「今さら社長もクソもあるかよ!言いたいこといったらすっきりしたぜ!じゃあな!」
去ってゆく男。
「今の人、誰なの?」
「首にしてやったヤツなんだ。バカ野郎」
「首って、あの人なんか悪いことしたの?」
「してないよ。でも、あいつの存在は会社にとって不利益なんだ」
「太郎さん。なんか変わったね」
しばしの沈黙・・・
「そーなんだ!そーなんだよ!僕は初めっから社長になんか向いてなかったんだ!どっかふたりして遠いところに行って暮らそう!」
「そんな夢みたいなこと言わないで」
「いや。なんとかなる。なんとかなるんだよ」
四郎は犬塚弘に命じて、会社の全財産を現金化させ、隠し金庫にしまっていた。その最中、四郎の胸に去来したのは、
「太郎が二郎、二郎が三郎、三郎が四郎。そうやって変わってくるたびに頼れるものはなにもなかった。でも、金さえあれば」
の心の声だった。
だが、そこに現れたのはフィアンセだった。
「そんなにお金が大事なの?結婚するまで、ここの鍵は預かっておくわ」
そう言って、金庫の鍵は奪われてしまった。
しばしして、二人は式を挙げ、〝今夜はなにするの?〟と落書きされた車に乗り、新婚旅行へ旅立った。
「もー。あなたー。はやくいらっしゃいよー」
泡風呂の中で、新婦は言う。
「分ってるよ。今いくよ」
四郎は内実、それどころではなく、新婦の荷物の中から金庫の鍵を、ひっくりかえしもっくりかえし探しに探していた。
「あった!あったぞ!」
「あなたー。まだー」
「Mooooooooooo」
「ギャーッ!!!!」
しびれを切らした新婦が、タオルを体に巻いて出てゆくと、その視界に飛び込んできたのは、ベッドの上にいる牛だった・・・
〝新郎、牛に変身す〟
そのニュースは大々的に報じられ、左卜全博士の科学的説明もなされたが、結局牛は競りにかけられ、最終的にそれを買い取ったのは吉田日出子だった。
広がる草原。牧歌的な風景。
「太郎さん。最後は牛になっちゃったんだね。でも、これでやっとふたりきりになれるね」
その綱を引っ張り、遠くへ消えてゆく吉田日出子と牛・・・
ブラックコメディと言えばそうなのだが、そこになにかディープなものが存在していた。
明日の俺は、果たして明日も俺だろうか。キャキャキャと笑いながらそんなことも考えた作品だった。