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執筆者の写真makcolli

帰ってきたヨッパライ


68年。フォーク・クルセイダーズは時の人だった。

そのフォークル・ブームに当て込んで製作された映画が、『帰ってきたヨッパライ』だと思うのだが、当時フォークル目当てに映画館に足を運んだ人の多くが、映画館を出る時、「訳分んなかった」という感慨を抱いただろう。

監督は大島渚で、松竹ヌーヴェルバーグな作風に仕上がっているのだが、やはりこういうノリには個人的についてゆけない。

大学最後のバカンスにと海岸にやってきた加藤和彦、北山修、はしだのりひこの三人だが北山とはしだの服が盗まれ、代わりに軍服と学ランが置いてあった。

それを着たふたりは漁村の人間たちに怪しいと目を付けられ、警察に追われる羽目に。

服を盗んだのは韓国陸軍軍人で、ベトナム戦争への派兵から逃れるため日本に密航してきた佐藤慶と馬山高校生で日本の大学に進学するために同じく密航してきたぼうずっくりの少年だった。

そしてふたりは北山とはしだの服を着て、日本人になりすまそうとする。その服を奪い返そうとするフォークルとの間で、攻防が展開される。

68年の韓国というと北朝鮮による青瓦台襲撃事件があったり、そもそも軍事独裁政権下にあって、今では考えられないくらい政情は不安定だった。

そういうことが、この映画の背後にはあるのだろうし、むしろ大島渚が撮りたかったのは、フォークルの「イムジン河」発売中止にみられるような状況、南北分断、同じ民族同士がイデオロギーの違いによって殺し合わなくてはならないという現実だったのかも知れない。

しかし、この作品を見て思ったのは、インテリがとってつけたように半島情勢や在日を描いているという感じで、非常に陳腐な印象しか受けない。

逆に近年の原作者も在日、プロデューサー、監督も在日という『夜を賭けて』や、監督は井筒和幸だが『パッチギ!』なんかのほうが、在日の近現代史をその内側から描いた良作があるのでなおさらそういったインテリ目線を感じてしまう。

それに手法的にも突然、物語の脈絡と関係なく、フォークルの三人が街頭に出て街ゆく人たちに、「あなたは日本人ですか?」と聞くと、おしなべて「いえ。韓国人です」と答えたり、物語が途中でファーストシーンにループして、そこからまた違うバリエーションの話しが始まるという、まあ前衛的なことをやっているのだが、こういった手法は公開当時は斬新な手法だったに違いないが、今見てみると逆に古くさいものに感じられてしまう。

例えば自分はマキノ雅弘と大島渚、どっちが好きかと聞かれれば、迷わずマキノ雅弘と答える人間なので、その手法が物語の展開にどう効果的に働いているか、ということに重きをおくので、ストーリーテリングの枠組みそのものをぶち壊してしまう前衛的手法には辟易するし、ここにもついて来れるヤツだけがついてくればいい、というインテリ目線を感じてしまうのだ。

東映のやくざ映画とか見過ぎた性もあるのだろうが、作品のテーマをどーんと前面に掲げて仕上げるというのは野暮のような気がして、あくまでテーマを物語のなかに落とし込んでチラッと、さりげなく見せるというほうが作り手としては優れているように思える。

ただ大島渚作品には常連の小松方正や佐藤慶、渡辺文雄がいい演技を見せていることは確かだし、殿山のおやっさんが初めはタバコ屋の婆さん、次に漁師、そして佐藤慶を銃殺する警官と役を変えて登場するのは面白かった。

あと東映からの出演で緑魔子もよかった。傷痍軍人の渡辺文雄の妻でありながら、北山修が淡い恋心を抱いてしまうという謎の美女。

一応、製作は創造社という大島渚が立ち上げた(のか?)プロダクションで、配給が松竹であるが、これが東映の直営館で上映されたら、あまりの訳分んなさぶりに暴動が発生していたと考えてもおかしくはないだろう。

自分としては同じ在日をテーマにした作品で、近い年代のものとしては山下耕作の『京阪神 殺しの軍団』や、深作欣二の『やくざの墓場 くちなしの花』なんかのほうが断然見応えがあるし、シンパシーを覚える。

そして同じ松竹でも、前田陽一や森崎東、渡辺祐介なんかの反ヌーヴェルバーグ派の奮闘が逆に素晴らしく思える。

ただ、そんな感想しか残らない映画だった。

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