「名前負け」という言葉がある。
東映映画『尼寺博徒』が、まさにそれであった。当初は主演にして尼を演じる野川由美子が、尼のハゲ頭に諸肌脱いで、仁義を切ったり、ドスを振り回したりするんだろう、と当然予想していたのだが、何か作品全体はそつなくまとめられているという感じ。
ある夜、女賭博師の野川由美子は胴元を務めていたが、客のヤクザからイカサマやりやがってと、因縁をつけられた。
その野川由美子のうしろに控えていたのは、我らが伴淳三郎。
「てめー!うちの春子がサマやったってぬかしやがったな!こっちは十三の時から盆の上に上がっているんでえ!なめんじゃねえ!」
そう言って伴淳が、いちゃもんをつけたヤクザの腕を握ると、その手のひらには隠し持っていたサイコロが握られていた。
「ヤローっ!」
ドスを抜いて切りかかってくるヤクザども。伴淳もドス抜いちゃったりして、応戦する。しかし多勢に無勢。刃が伴淳の体を切り裂き、貫く。
「お父さーん!」
「春子・・・」
二人は親子だったのだ。崩れ落ちる伴淳。そこへ伊吹吾郎が駆け込んでくる。
「おやっさん!おやっさん!」
シーン変わり、寺院の中で読経を上げている野川由美子以下の尼たち。そこにはこの寺の責任者、庵主の姿もある。
ある日、新しく入ってきた尼のために、剃髪式が行われた。
しかし新入りの尼はその夜、ふすまの向こうから喘ぎ声が聞こえてくるので、そっと覗いてみると、そこでは橘ますみと應蘭芳が互いに体を求めあっている姿があった。
ショックを受けた新入りは、廊下で泣き濡れていた。そこへ野川由美子が通りかかる。
「どうしたのですか?」
「わたし、尼寺ってもっと清らかな場所だと思っていたんです」
「ここは女だけの城、いろいろとあるのです」
なぜか野川由美子は、そうドライなことを言った。
その後、庵主に托鉢に行くことを命じられた皆は、街に出て行くが、東映のパピーこと渡辺やよいは、友達のマンションに転がり込み、サイケなワンピースとカツラを借りて、ゴーゴー喫茶に赴き、耳をつんざく狂騒の中で踊り狂うのであった。
感度、バツグンじゃん!
このシーンには東映流のセンスを感じたが、物語はこのまま弾けはしなかった。
病院のベットの上、伴淳は体を包帯でぐるぐる巻きにされて、延命治療を受けていた。
生きていたんかい!そう言いたくなるほど、ファーストシーンでダメージを食らった伴淳が生きていたこと自体が、まず意外だった。
東映映画にはセオリーというものがある。
そのセオリーの一つが利権に絡む話である。例えば終戦直後の闇市に絡む利権の話とか、戦前なら炭鉱の利権に関するもの。60年代になると、地域の再開発事業に関するものなどもある。
そこには必ず悪徳ヤクザたちが、一枚絡んでいて、無理な立ち退き要求などをしてくるのだが、この『尼寺博徒』の場合は、野川由美子たちが暮らす尼寺、そのものが利権の対象になっている。
この寺の宗派には事務長がいて、これが渡辺文雄。
この渡辺文雄と寺の年増尼は、ねんごろの仲で渡辺文雄としては、次期庵主に年増尼をすえ、尼寺を手中にすることを目論んでいた。
そのためには檀家総代である建設会社社長の、曽我廼家名蝶の協力が必要だと考えた渡辺文雄は、年増尼に命じて橘ますみを明蝶の家に送り込んだ。
当然、橘ますみは明蝶に男の味をとっぷし教わったことだろうが、そのシーンが全くなくて、次のシーンは橘ますみが尼寺にて、應蘭芳からきつい折檻を受けている模様なのである。
應蘭芳の言い分は、自分という存在がありながら、男と寝るなどということは汚らわしいにもほどがある、とヒステリックにわめきながら、橘ますみを激しく鞭打つのであったが、登場してくる女が全員、ハゲ頭なので最初は誰が誰だか区別がつかなかった。
ちなみに橘ますみについて書けば、顔立ち、姿はそれなりに可憐なのである。しかしなんの因果か、石井輝男監督の「異常性愛路線」の常連となり、湯船に頭沈められたりして、この作品ではハゲ頭でのレズシーンである。
彼女が次第にスクリーンから姿を消していったのも、うなずけるというものである。
仮に石井輝男が、この作品を監督していたら、橘ますみが明蝶に男の味をとっぷし教わるシーンは、これでもかと言わんばかりに描いただろう。
「もう。監督、やめてください!」
と、まわりがストップをかけるまでカットの指示は出さなかっただろう。
この作品が何か凡ようになってしまっているのは、この作品の監督、村山新治と石井輝男の才能の違いと言っても、差し支えなかろう。
泣いている橘ますみに訳を聞く、野川由美子。
そこで明蝶の悪行を知ることになるが、橘ますみは珍説を披露する。
「仏の教えには捨身行というものがあります。仏様の前へ我が身を差し出すことと聞いております。ならば尼僧にとっての捨身行とは、殿方に我が身を差し出し喜ばすことではないでしょうか。それこそが菩薩の行いだと思うのです」
そのような捨身行なら、ぜひともけっこうと思う、世の男性諸君も多かろう。
またこんな話もあった。
新入り尼が寺の下働きをしている爺さんが住んでいる小屋へ行ったら、そこに見知らぬ若い男が隠れていた。聞けば男は爺さんの孫で、ヤクザに怪我を負わせてしまい、ここに隠れているのだと。
やがて二人は打ち解けてゆくが、男に怪我を負わされたヤクザたちが、ここは男子禁制の尼寺です、の制止の声も振り切って押しかけてきて、男を出せと息巻く。
野川由美子は新入りに、男を裏門から逃がすように言った。
裏門。
「また絶対に会えるよね」
「ああ」
しかし、二人は二度と会うことはなかった。それに東映映画に誰が、そんなプラトニックラブを期待しているというのだろう。
爺さんが暮らす、薄暗い小屋の中で男は新入りに〝男の味をとっぷし〟教えてやるのが筋道というものではなかったのではなかったのか。
このように野川由美子は、この作品中において、いつでも相談役なのである。尼寺の中で何か能動的に動く、アクションを起こすということはない。そこがこの作品を見ていても、何か停滞感を感じてしまう一因だと思う。
それと野川由美子が尼寺に入った理由は、父である伴淳が刃物沙汰を起こしてしまったことへの懺悔への気持ちによるものであった。
そんな野川由美子だが、出家する前、胴元時代に世話になっていた親分さんの襲名披露の花会に挨拶に行った時のこと、偶然伊吹吾郎と再会したのであった。
鳥取砂丘なのかどこなのか分からないが、砂丘の上を歩く二人をカメラは引きのアングルで捉えている。
出家する前、野川由美子と伊吹吾郎は愛を誓い合った仲であったが、伊吹吾郎は実際この時、野川由美子と歩きながら、下半身ピンコ勃ちになっていたにもかかわらず(あくまで推測だが)、
「俺はいつまでも待っているぜ」
なんて、かっこつけたこと言っていた。
この作品のポスターの惹句には、このように書いてある。
丁の目でれば、頭巾の下の私を!
女ばかりの魔の城に、夜な夜な聞こえる。盆の音、熱いさざめき。
この扇情的なキャッチコピーとは裏腹に、蓋を開けてみれば、そつない作品になってしまっている。
60年代。尼(もしくは海女)映画というジャンルは確かに存在した。同じく東映の藤純子主演作『尼寺(秘)物語』、また大映において若尾文子が尼を演じた『処女が見た』。
特に『処女が見た』の若尾文子は凄かった。破戒行為だと知っていても、若山富三郎の絶倫な体を求めてしまう尼僧を演じきっていた。
野川由美子が悪いという訳ではない。
日活時代の鈴木清順の作品に出演している彼女の演技を見ると、彼女がいかに卓越した女優としての才能を持っていたのかが分かる。
普通なら大女優と呼ばれてもおかしくない人だが、あまりにも出演作品を選ばなかったことが、彼女に対する過小評価につながっているとしたら残念だ。
んで、もう野川由美子も伊吹吾郎も、性欲のままに砂丘にてお互いの体を砂まみれになるほど、求め合っちゃえばいいじゃん。
砂まみれになりながら、Make Love しちゃえばいいじゃん、と思ったわけである。
尼寺の利権の話は思わぬ方向へ進んでいた。
事務長の渡辺文雄は尼寺の修繕費に手をつけてしまったのである。その金をなんとか取り戻そうと、東映の悪の砦と言ったらこの人、安部徹組長が仕切る賭場で奮闘していたが、どんどん負けは込んでゆく。
そこで名蝶の紹介で、安部徹と面会するが、賭場で貸した金、さらにこれは罠であったのだが、クラブのママ=安部徹の女と寝ちゃった金。その他、もろもろふっかけられて5000万を用意しろと脅される。
とてもそんな大金は用意できないと言うと、
「あんた宗派の僧正さんと、庵主さんの実印持っているよな。それ使って尼寺の借用書作ってくれよ」
とすごまれる。
「あんたがうちから借りた金を返してくれたら、尼寺はあんたの物になるんだからよ」
そう言いくるめられて、渡辺文雄は借用書を作ってしまった。
だが安部徹たちは、この借用書を持って本山の僧正のところへやってきた。
「僧正さんよ。5000万用意できなきゃ、あの尼寺売りに出すことになるぜ」
「何をそんなバカな」
「この借用書にはよう。ちゃんとあんたと庵主さんの実印が押してあるんだ。ハッタリで言っているんじゃねえぜ」
「わしはそんなこと知らん。実印は事務長に預けていたんじゃ」
「だからその事務長がよう。でっけえ借金作って、あんたらを裏切ったっていう訳よ」
翌朝。渡辺文雄の自殺体が発見された。
尼寺では僧正、庵主、野川由美子などが集まって、今後のことを協議していた。渡辺文雄と肉体関係を結んでいた尼は、号泣していた。本当に号泣していた。その涙の真意は愛する者を亡くした悲しみなのか、それとも庵主への道を断たれた悲しみなのか、はたまた男の味をとっぷし教えてくれる者を亡くした悲しみなのか、推して知るべしもない。
だが野川由美子は自分には考えがあると言う。
と、そこへ一本の電話が入る。相手は伊吹吾郎で、伴淳が今にも死にそうだという。
「お父さん!お父さん!」
他の尼たちは野川由美子に、はやく病院へ行ってあげてという。伊吹吾郎は受話器を伴淳の元へ持ってゆく。
「お父さん!お父さん!」
「は、春子かあ?あ、あのなあ花札引く時は、相手の手の動き、手の動きなよっく見るんだぞ」
昏睡状態の中にあっても野川由美子に、博打の手ほどきをする筋金入りの伴淳であった。
「お父さん!なに!」
「こうなあ。サマ師っていうのは、サマ師ってのはなあ。相手に手の動きじっと見てられると、指、指なあ。動くに動かせなくなるもんだからなあ」
そう言うと伴淳は事切れた。
野川由美子の考えというのは、自分が還俗して、安部徹の組に行き、賭博で勝負して尼寺の借用書を取り返すというものであった。
この展開にもガックリきた。
だったら今までの尼生活はなんだったの、ということになる。そうではなくて、野川由美子が尼姿のまま、
「さあ。張った張った張った。丁半ないか。丁半ないか。丁半揃いました」
なんて言ってサイコロを振る姿の方が、面白いと思う。
それをわざわざ還俗までして、という展開には、なにか説明的すぎるものを感じる。
で、野川由美子は安倍組長宅にて、子分の八名信夫と勝負して、勝つことができた。そして借用書を手に入れたが、
「ふっふっふっ。お前さん。生きてここから出られると思っていたのかい」
の安部徹の声の合図に、子分たちがぞくぞく現れて、野川由美子に襲いかかってくる。
と、そこへ今度は伊吹吾郎が、もう東映方程式よろしく、長ドス持って助っ人に参上し、子分ども、そして安部徹を斬り殺していった。
見つめ合う野川由美子と伊吹吾郎。
「今度は逆の立場になっちまったぜ。俺のこと、いつまでも待っていてくれるかい」
「ええ」
そこに浮かぶエンドマーク。
この作品で唯一弾けたのは、尼のくせしてサイケな音楽と、照明の中踊り狂った渡辺やよいだけだった。
藤純子の「非牡丹博徒」と、江波杏子の「女賭博師」がヒットしていた邦画界の状況のもと、どさくさ紛れに製作された一本と言っていいだろう。