DVDのジャケットには若尾文子の顔が、でかでかと写っている。
しかも監督は増村保造。と、くれば若尾文子をヒロインにした作品なのかと思っていたが、そうではなかったので、まず肩透かしを食らった。
大映映画『氾濫』は佐分利信や川崎敬三、沢村貞子などを中心とする群像劇である。その群像を惑星に例えるなら、若尾文子はその周りを飛んでいる衛星に過ぎない。
若尾文子の父、佐分利信は化学会社に勤める技師で、金属接着剤を発明したことによって、会社の業績も上がり、単なる技師から専務に就任。
だが本人とはまったく関係ないところで、調子に乗った妻である沢村貞子は、いかにもエセ芸術家の匂いを漂わせている伊藤雄之助を講師として、友人の奥様方を家に招き入れる。
この伊藤雄之助。
お花の先生らしいのだが、その作品は前衛的すぎて、まるでサンゴを家の中に飾っているよう。
それでいて、絶えず最新型のカメラを持っていて、なんでもかんでも、パチリパチリと撮っていいて、口調は「ざーます」風。
若尾文子は若尾文子で、家でダンスパーリーなんか開いちゃっている。
そんな自分が会社で専務になったことで、調子に乗っちゃっている二人に佐分利信は嫌気がさしていた。
伊藤雄之助先生が家族で記念写真を撮ろうなんて言って、全員フレームの中に収まったら、そこから回想シーンが始まり、ボロボロの家に報道陣が詰めかけ、三人にあれこれインタビユーをする。
それくらい佐分利信の発明は画期的なものであったのだ。
中でも沢村貞子は、とにかく技師の給料なんて薄給でなんて答えた。
一方、アパートの万年床の上でくすぶっている男がいた。
その男こそ川崎敬三で部屋の中は散乱し、家賃も滞納しているみすぼったらしい男であったが、野望と性欲だけは人一倍持っているヤツであった。
ヤツは大学の研究員で佐分利信と同じく、化学の道を志していたが、やはり大学の研究員などと言うものは薄給のしがないものでしかなかった。
しかも長時間労働の今風に言えば、ブラックな職場からなんとか脱したいと思うのは、当たり前のことだと思うが、ヤツの場合はやり方がなめくじらのように執拗かつ、大胆だったのである。
ヤツは呼ばれてもないのに自分の上司に頼み込んでというか、強引に化学学会の重鎮の還暦祝いのパーティーの場に潜入し、その二次会に同じくやってきていた佐分利信を見つけると、自分の研究論文を読んで欲しいと頼み込んだ。
佐分利信はなかなかによく書けているが、雑誌に掲載するなら英訳しなくてはダメだというアドバイスを送った。
その頃、沢村貞子はよろめいていた。
若尾文子のピアノの教師として雇った船越英二が迫ってきたのだ。内心、沢村貞子は佐分利信に対して嫌気がさしていた。
技師として働いていた時の貧乏暮らしには恨みにも似た感情を持っていて、それがそのまま佐分利信に対する態度として出ていた。
そこへちょっといい感じじゃんと言った風な船越英二が迫ってきたものだから、よろめいていた。
佐分利信はどこかで船越英二が、これまでに四度も離婚をしているということを知り、 そのことを沢村貞子に告げたが、すでによろめいちゃっている沢村貞子は聞く耳を持たなかった。
この作品の中で唯一、生真面目で裏表もないようなキャラの佐分利信だが、彼にも秘密はあった。
かつて東京大空襲の時、佐分利信が工場で資料などを整理して逃げようとして、外に出てみると防空頭巾を被った左幸子がそこにいて、佐分利信は彼女の手を取って、塹壕の中に退避した。
左幸子は学校の教員で、勤労動員の女学生たちを引率するために工場に来ていたのだ。
夜空に炸裂する焼夷弾。
その炎の塊がばらけると地上に降り注ぎ、辺りを真っ赤に染め上げてゆく。怖くなって塹壕から逃げようとする左幸子を引き戻し、その体の上に覆いかぶさる佐分利信。
最初は彼女を守っているつもりだったのだろうが、次第に佐分利は男としての本能に目覚め、左幸子の体を激しく求め始めた。炎うずまくその中で。
このシーンを見て、やはり増村保造だなと思った。
極限状態での性欲の発露。絶体絶命の状況だからこそ、ムラムラしてしまう。例えばそれは、やはり若尾文子主演の『赤い天使』でも描かれていたし、性に対する執拗な描写というのは後年の『セックスチェック 第二の性』にまでつながってゆくテーマなのではないだろうか。
あれから月日は流れたのだが、佐分利信が会社の専務に就任したということを知り、突然左幸子が佐分利信のもとに現れた。
おしるこ屋のようなところで対面する二人。左幸子は子供を連れていて、その子は彼女が佐分利信と別れたあとに結婚した男の子供であるという。
「女手一つで苦労したんだなあ」
「まあ。そんな感じですわ」
何かそんな会話をしたように覚えている。この後も佐分利信と左幸子は逢瀬を重ねるのだが、そこに回想シーンが加わり、二人が同棲をしていたところに疎開していた佐分利の妻からの荷物が届き、突然にして二人の関係は終わってしまったということが描かれている。
会社の社長はゲスいヤツだった。
佐分利が接着剤を発明して、会社が急成長した時は佐分利のことを、「天才発明家」、「日本の宝」、「化学界の偉人」などと言っていたが、他社が同様の接着剤を販売し始めると、アホみたいに先行投資していた分、利益は出なくなってしまった。
すると今度は佐分利に新製品をすぐ作れ、明日にでも作れ、その代わり資金は出さん、君の頭脳を持ってすれば、世界的な発明も夢ではない、などと無茶振りにもほどがあることを言ってくる。
そこで佐分利はさび止薬の開発に乗り出すが、これがなかなかうまくいかない。
家庭では孤立している。会社でも行き詰まっている。そんな状況もあって、佐分利は左幸子との逢瀬を重ねるのであった。
「君には、君にはずっと変わらないんで欲しいんだ」
そんな中、左幸子は子供の具合が思わしくないと言う。すると佐分利は治療費の足しにしてくれと、左幸子に金を手渡すのであった。
かたや野望と性欲で溢れかえっている川崎敬三には、幼馴染の女がいた。
この女がアパートに入ってくるや、スカートの中に頭を入れる偏執的な川崎敬三。もうイチャイチャというか、あの青びょうたんみたいな顔をして、どっからそんな性欲が湧いてくるのかと思うほどスケベな川崎敬三。しかもおもっいきりC調。
女が今度友達の家でダンスパーティーがあるから行かない、と誘っても最初は乗り気じゃなかったのに、その友達が佐分利信の娘である若尾文子だと分かった瞬間、速攻で行くことを決めた。
パーティー当日。
川崎敬三は女に踊ろうと誘われても踊らなかったくせに、隙を見て若尾文子と踊り始めた。そして、
「あなた英文科の学生さんなんでしょ?よかったら僕の論文を英訳してくれないかな」
「論文の英訳なんて」
「大丈夫ですよ。ほんの少し専門用語があるだけですから。それにあなたのお父さん、僕の論文を褒めてくだすったんですよ」
「え。お父さんが」
なんて言って見事、若尾文子との接近に成功したのであった。
佐分利には昔馴染みの大学の教授がいて、佐分利に会社に雇われている身なんかよして、大学の教授にならないかと誘ってくる。
しかし、その誘いは友情からのものではなかった。ヤツにはクラブのママの愛人がいて、手切れ金を要求されていたのだ。そこでヤツは教授になるためには、いろいろ根回しも必要だとかなんとか言って、佐分利に金銭を要求するのだが、佐分利はお茶を濁したような返事しかしなかった。
その頃、すっかり有閑マダムになっていた沢村貞子は、例のケージツ家、伊藤雄之助に連れられて、他のマダムたちと今風にいうならゲイバーにやってきた。
他のマダムたちがノリノリなのに対して、何か冷めている沢村貞子。やがてゲイボーイたちが現れ、マダムたちは一緒に踊り始めたのだが、沢村貞子は伊藤雄之助に、
「あら。踊らないの〜」
と言われても、
「8時に約束があるんで」
と言って、ゲイバーを出て行ってしまった。
そしてやってきたのが、船越英二と待ち合わせの約束をした連れ込み旅館で、二人はねんごろの仲になったという訳である。
しかし、旅館を出て行く時、やはり愛人と愛欲を貪りあっていた例の教授に、沢村貞子は目撃されてしまった。
他方、川崎敬三は例の論文を頼んだ件以来、若尾文子と急接近していた。
映画館に文子を誘った敬三。
ロマンチックな洋画がスクリーンにかかっている。しかし敬三はまるで、蛇が獲物を仕留めるかのように、暗がりの中で文子の腕を握り、やがてその触手は文子のカーディガンの袖から胸部へと伸びてゆくのであった。それをこらえる文子。
敬三はかつて研究室の同僚に、こんなことを聞かされていた。
「女を口説くなら、やっぱり寿司屋の二階だな」
今となっては、よく分からない感覚なのだが、とにかく敬三は文子を寿司屋の二階の個室に誘った。
「変なところね。でもさっきのは失礼だったわ」
「僕と一緒にいると、大衆的なところが見れていいでしょ」
言うや否や文子を押し倒し、顔にビンタを食らわせ、馬乗りになり、その首を絞める敬三。
「もう。もう。殺したいほどきみのことが好きなんだ!」
「お願い!やめて!乱暴なことはよして!」
これ。完全にレイプでしょ。川崎敬三はレイプマンでしょってなモノなのであるが、なぜか知らないがこの件から二人は親密の度合いをぐっとアップするので、女心というものはわからないものである。
敬三の幼馴染の女はなんだかんだ言って敬三に惚れていた。
そして敬三は女と結婚の約束までしていた。だがある夜、女がヤツのアパートに行ってみると、その入り口で抱き合っているヤツと文子を目撃してしまった。そのまま別れる二人。
女が部屋の中に入ってくると、ポーカーフェイスを決め込む敬三。
「今までここに貴子さんがいたでしょ!」
「知らねえよ」
最初はしらを切っていた敬三だったが、ついに本音をゲロする。
「おまえの顔を見ていると田舎の匂いがするんだよ!あの嫌な堆肥の匂いだよ!俺は貴子さんと結婚して、三立化学の専務の息子になるんだよ!」
泣きの涙でその場を出て行った女であったが、彼女も負けてはいなかった。
三立化学の佐分利の部屋に出向き、今までのこと全部洗いざらいぶちまけちゃうよー!っていうことで敬三と文子は出来ちゃっていることをカミングアウトするのであった。
だが敬三は先手を打っていた。
自分と文子は誠実に結婚する約束をしている。ついては女に手切れ金を支払って欲しいと、佐分利に厚かましいにもほどがあるほど頼んだのであった。
しかし佐分利は文子と結婚するには条件があると切り出した。
一つは三立化学の社員になること。もう一つは佐分利が難航しているさび止薬の実験を成功させることであった。
沢村貞子はネクタイを土産にして、船越英二の家を目指して歩いていた。
ドアを開ける。するとそこには若い女にお馬さんごっこされている船越英二の姿があった。
「あなた!誰なんです!この女は!」
すると船越英二は普段のジェントルな口調から一転して、
「あなたもなにもねえんだよ!鏡で自分の顔よっく見てみろ!暗がりじゃあ、それなりにごまかせるかもしれねんけどよ。昼の日中じゃ見られたもんじゃねえぜ。だいたいピアノ教師が、その家の奥さんを誘惑するっていうのはエチケットみたいなみんなんだぜ」
ネクタイを置き、黙って部屋から出て行こうとする沢村貞子。
「ネクタイ一本っていうのはないだろ。有り金置いていくんだよ」
そう言うと船越英二は、沢村貞子の財布を奪った。そのまま部屋を出て行く沢村貞子。
この時の彼女がいい。
取り乱したり、泣きわめいたりするのではなくて、あまりのことにノーリアクションを取ってしまう姿がいい。人間なんてあまりのことに出くわした時は、身も心もフリーズしてしまうかもしれない。
そのことを彼女の演技は示しているのではないのか。
佐分利の実験はうまくいっていなかった。
そこでしびれを切らしたゲス社長は、同様の製品がドイツにあると部下からの報告を受け、その製品の特許を取るため、部下をドイツに派遣させたのだが、その送別の空港にて、
「向こうに行って商談が成立したらブロンドの一人や二人、抱いてきてもいいんだぞ。あっはっはっ」
とまさにゲスの極み発言をしたのだった。
この商談の件以来、佐分利は社内でも冷遇されはじめていった。
佐分利の使う実験室には、一癖ある職工がいて、
「なにね。あんたなんかね。あんな社長連中のいいなりになっていることなんかねえんですよ。もうね。昔みたいにあっしらと一緒に気楽にやってらあ、それでいいんですよ」
なんて言っていた。佐分利の胸中にも、それも一理あるかもしれないと思うものが去来したのかもしれない。
佐分利は会社の自らの部屋を整理していた。
専務職辞表を提出したのだ。そこにあの教授がいて、やはり佐分利に大学教授にならないかと、まだしつこく誘っている。教授には教授の都合があって、例の愛人との手切れ金を早急に用意したかったのだ。
それでも佐分利は金で買った学位なんていらないと誘いを断る。
そんで教授としては、なんとしても金欲しいから、どんどんと金をダンピングするが、それでも佐分利は話を断った。
佐分利が専務を辞任して慌てたのは敬三であった。
すでに若尾文子が専務の娘でなくなったので、敬三に取って文子は何の意味も持たない存在になった。だから速攻で結婚のことは破談にすると、文子に洗いざらいぶちまけた、というかうそぶいた。もうドライに割り切った。
文子は訳を正したが、敬三はもうバイバーイってな感じで文子を捨てた。
会社がドイツから特許を取ってきた製品だが、それを市場に流通させるためには欠陥が見つかり、改良する必要に迫られ、その研究員に白羽の矢が立ったのが川崎敬三だった。
佐分利信はハートブレイクの状態にあったため、左幸子のもとを訪ねたのだったが、病気と言われていた子供はぴんしゃんしていた。
「ねっ。お客様来ているから外で遊んでおいてね」
「あの子は病気じゃなかったのか」
「全部嘘だったんです。お金が欲しかったから・・・。でもそれくらいのことしてもいいでしょ。あなたは10年前突然私を捨てたんだから。それくらいの権利、わたしにはあるでしょ」
なにも答えられない佐分利であった。
敬三は見事実験に成功した。
新社屋の落慶式。ゲス社長は、かつて佐分利を褒め称えたように敬三のことを、「日本化学界のホープ」だとかなんだとか褒め称えた。
その席には例の教授がいて、敬三はまだ知名度もないから、製品にわたしの名義を貸しましょうか、などと言っている。もちろん名義料が目的で。
むっつりスケベというか、とにかく下半身のコントロールが効かない敬三は、その席にいた社長の令嬢と思しき娘に目をつけ、巨大なタンクの上に誘っていく。
沈黙に包まれている佐分利家。
家庭の中をどんよりとした空気が漂っている。佐分利は会社に行ってくると言って部屋を出て行こうとする。若尾文子はソファーの上でネグリジェみたいなの着て、ふてくされている。
玄関。
佐分利が振り向くと、そこにはカバンを持った沢村貞子がいた。そのままカバンを受け取り、家から出て行く佐分利。そこにエンドマークが浮かんだと思う。
まったくもって川崎敬三は、いけ好かないヤツであった。
嘘つき。ケチ。C調。スケベ。いやらしい。打算的。青びょうたんみたいな顔をしている。強いものにはへーこらするくせに、弱いものは完全にドライに切り捨てる。
それでいてサクセスストーリーを駆け上がってゆく。こんなヤツ、破滅してしまえとすら思えてくる。
が、見るものにここまでの感情を抱かせるということは、川崎敬三の演技が出色のできであることも確かなのである。
この作品中における川崎敬三が、他の作品のものよりも強烈に印象に残ったことは確かで、その分においても名演技と言えるだろう。
そして59年において公開されたこの作品が、性描写の点においても人間関係の相関においても、相当にショッキングなものだったことは想像に難くない。
タイトルの『氾濫』とは、性の氾濫、欲望の氾濫を意味するのだろうか。
しかし色々な作品があるのだから当然なのだが、増村保造作品ときて、若尾文子が男に騙されて捨てられるだけの役を演じていたのは残念な気がした。