その映画はこのようにして始まる。
長門裕之演じるところの東京ムーランは、その妻ルージュと当世流行りの垢抜けた夫婦漫才を繰り広げるところの「拝啓 総理大臣様」というレギュラー番組を持っていた。
だがこの東京ムーランこと長門裕之は、大阪は釜ヶ崎にて釜ヶ崎村という、完全に時代から取り残された芸人たちの吹き溜まり出身者で、その釜ヶ崎村では長門裕之の師匠に当たる人間が死に、通夜が営まれていた。
そこに荷台に犬を満載したトラックが乗り付け、その運転席から現れたのは誰あろう。我らが渥美清演じる鶴屋角丸なのであった。
「師匠。最期は太鼓叩きながら死によったんや」
「ええやないか。舞台の上で死ねるなんて、芸人にとっては本望やで。よっしゃ。鶴屋の名前はわいが次ぐよってな。師匠、あんじょう成仏してくれや。今は犬殺し(野良犬を捕まえて殺す仕事)に堕ちたわいやけどな。またふんどしきつう締め直して、芸の道に進むんや」
そう角丸は言うと釜ヶ崎村をあとにし、紋付みたいな服を着て、東京を目指した。
当然、角丸がやってきたのは昔なじみの長門裕之が住む、当時風に言うならレジデンツとでも言うのだろうか、小洒落たマンションだった。
だが長門裕之は、これから行かなければならないところがあると言って、話を真面目に取り合ってくれない。その代わり、ここへ行けと連絡先を書いたメモを角丸に手渡した。
そして部屋で留守番していてもいいからと言って、角丸がシャワーを浴びている時に妻ルージュが帰宅し、浴室から見慣れぬ労務者風の男が現れたので、ちょっとしたパニックを引き起こしたのだった。
その頃、京都で身寄りをなくしたある少女が知り合いを頼って羽田にあるバラックにやってきた。
その娘、綾子は18歳であったが、黒人と日本人のハーフであった。
これはセットではなくロケなんだと思うのだが、立ち並ぶバラックのリアルさが半端ではない。そのバラックの上に毒々しいまでに企業のネオン管で作った広告が瞬いている。
その奇跡的な光景に軽い卒倒を覚える。日本でもほんの半世紀前までは、こう言った風景が普通に存在していたということを見せつけられる。
綾子はこのスラム街とも言えるところに、親戚を頼ってやってきた。
「綾ちゃん!綾ちゃんじゃないの!まあ中に入りなさい!」
親戚の叔母さんと思しき女は、綾子をアパートの中に入れたが、貧乏人の子だくさんというのか、部屋は散らかっているし、ガキはわんわん泣いている状態。
さらに旦那の加藤嘉が凄まじい。
「なんだあ!てめえはー!突然真っ黒い顔して現れやがってー!てめえなんか一歩たりとも家に入れねえぞー!」
一升瓶を絶えず持ちながら、そう喚いている。
ある意味リアリティーという点では、加藤嘉の方が渥美清を大きく上回っているとも言える。
羽田のバラック部落に住むアル中親父という役柄を、恐ろしいまでに体現している。
この加藤嘉の妹かなんかが例の広告塔のあたりで、屋台をやっていた。
だがなんの拍子なのか、綾子は客を怒らせてしまい、「黒ちゃん。黒ちゃん」と因縁をつけられることに。そこに居合わせたのが我らが渥美清、おっと角丸であった。
角丸はあのあとも長門裕之を追って、テレビ局のロビーに行ったが、受付嬢に「犬臭い」と笑われた。
それで長門裕之と飲むことになっても、死んだ師匠の芸風は時代遅れだと長門裕之が言うのに対し、角丸は師匠こそ芸人の鏡、太鼓を叩きながら死んだのは立派なもんだと、意見が噛み合わなかった。
そして長門裕之に連絡先を紹介してもらった事務所に行ってみたが、
「漫才やりたいのに相方はどうするんだ」
と言われたり、そもそも根が自由人なので下働きは嫌だと言って仕事を断ってしまっていた。
で、なぜ羽田に現れたのか忘れたのだが、とにかく角丸は綾子の肩を持ったのであった。
「えっ。そんなにこの娘を黒ちゃん、黒ちゃん言うならなあ。わしらはみんな黄色ちゃんやないかあ。よっ。羽田界隈じゃ幅効かせているかもしれんけどよ。こっちは釜ヶ崎の角丸やど。それでもやるいうんか」
いう間もなく、相手の蹴りが角丸の急所に入りヤツは悶絶するしかなかった。
角丸は綾子にシンパシーを覚えたのであろうか。
ともかく二人は街から街に流れ歩いて行く旅芸人一座に加わり、その幕間に即席の漫才を披露することになった。角丸は綾子にボタンという芸名をつけたが、とにかく綾子は何を聞かれても「はい」しか言えない。
場所は場末、ドサと言っても過言ではない、いや、完全にドサ廻りのドサ以外に表現のしようがないところだった。
そんな中で日本が誇る怪優・上田吉二郎は綾子に、
「もういいから脱げー!」
とか、
「ストリップやれ!ストリップ!」
などとヤジを飛ばし、さらにクロンボ、黒ちゃんなどと現在で言ったらアムネスティーインターナショナルから是正勧告を受けるであろう差別用語を連発した。
それにもう頭きちゃった綾子は客席に入り込み、上田吉二郎に痛い目を食らわせた。
楽屋にて。
「なんや。お前。そら悔しかったんやろ。そやけどな。芸人にとってお客さんほど大事なものはないんやで。悔しかったらなあ。お客さん。笑わしてみんかい。なっ。二人でおもろい漫才やろうやないけ」
綾子に熱っぽく芸人魂をとくとくと語る角丸であった。
その頃、東京では長門裕之の浮気がバレ、東京ムーラン・ルージュは解散の危機が迫っていた。
長門裕之は以前から百貨店の売り子と浮気をしていて、それをルージュのマネージャーが嗅ぎつけたのであった。
プライドが高いルージュは、それが許せなくなり、長門裕之にコンビの解散を申し出た。
ちなみに長門裕之の浮気相手には弟がいて、それが山本圭。
やはり山本圭はインテリで神経質な役とか病弱な役などがよく似合う。
その山本圭。生まれつき足が悪いらしく病院をたらい回しにされていた。
その山本圭の元を浮気相手である姉と長門裕之が見舞った。グラサンをしていた長門裕之であったが、そのうち同じ病室の人に、
「あんたムーランさんでしょ? 私好きなんですよ」
ってな具合でバレてしまったが、長門裕之も悪い気がしなかったのか手品なんてやりだした。すると山本圭は言った。
「帰れよ!二人とも帰れよ!」
難しい年頃であったのだろうか。
角丸は綾子とともに未だ旅一座の中にあった。
その二人がなんか金色夜叉みたいなコントを、これまたドサ廻り感がプンプンする会場でしていて、今回はそれなりに受けていた。
ところがそこに一人の男が現れ、
「これから漁協で大事な話があるから、みんな集まってくれー」
なんて言ったもんだから、みんなは小屋から出て行ってしまった。呆然とする角丸。そこに長門裕之が立っていた。
長門裕之が持ちかけた話は、こうであった。
ズバリ自分と一緒に漫才をやらないかと。ルージュと別れた長門にとって起死回生を図るには角丸とコンビを組むしかないと思われたのだ。
一方、角丸にとっても上京した当初の目的は長門と一緒に漫才をやりたいということだったから、この話は願ってもないものだった。
完全に舞い上がっちゃった角丸は、すでに綾子のことなど眼中になく、一座のみんなに、
「わいテレビ出るんや!わいテレビ出るんや!」
とうわ言のように喋り、さらに二人で面白い漫才をやろうと言った綾子にも、
「よく見とけよ。わいテレビでバッチリ決めたるさかいなあ」
と、なんの臆面もなく言い、一座のみんなからは影で、
「あのバカ」
呼ばわりされるのだった。
東京に向かう夜汽車の中で角丸と長門は、酒を飲みながら気勢を上げていた。
「これからは漫才言うたらわしらの時代やで」
「向かうところ敵なしやーっ!」
意気揚々とはこのことであった。
長門裕之はマンションがルージュの名義になっていたため、すでに追い出され浮気相手とアパートに住んでいた。さらにそこに角丸が転がり込んだ。
今更ながらだが角丸、いや渥美清はその四角い顔ゆえにいく先々で「下駄」とか呼ばれていた。
熱心に漫才の台本に目を通す角丸。
部屋の真ん中には仕切りのために毛布がぶら下がっている。
「あのなあ。ちょっとつかみのここがわからへんのや」
そう言って角丸が毛布に手をかけると、長門とその相手は情事の最中であった。
そんな夜もあった。
向かえた本番。
角丸は樽でできた太鼓なんか叩いて上機嫌であった。しかし角丸にとって、これが人生で初めてのテレビスタジオにおける収録であった。そして角丸は長門にアップの意味を聞いていたが、よくわからない様子であった。
スタッフからキューが出る。
しかし固まっている角丸。たまらず長門、
「あのな。今のが合図だからそうしたら始めればええんや」
「今のが合図、合図・・・」
これで完全に頭の中のネジが狂ってしまったのか角丸は次々にNGを出していき、その「にっぽん38度線」という番組は収拾がつかなくなっていった。
「どこかの国に38度線っていう線があるらしいね」
「それは台湾と日本の間にある線でね」
「いい加減にしろやーっ!なんど言ったらわかんねん!」
「わしかてな!一生懸命やっとんねん!それをお前が横からキャンキャン言いよるから喋れるものも喋れんやないけーっ!」
取っ組み合いになる長門と角丸。
「お前なんかを相手に選んだわしがアホやったわい!」
「わしかてな、こんな台本付きの漫才ようやらんわい!漫才は生物じゃアホ!」
スタジオを出てゆく長門。
そのあとに続くようにスタッフたちも出て行ってしまう。
土下座して懇願する角丸。
「お願いでおま。もう一度だけ、もう一度だけやらしてくれまへんか」
しかしスタッフたちはゴミでも避けるかのように、角丸を置き去りにして出て行ってしまう。
監督は野村芳太郎。
気づけば野村芳太郎、渥美清コンビの作品を見るのはこれが三本目である。
『白昼堂々』は渥美清を中心とするスリ集団が、廃坑になった炭鉱部落を根城にしてスリを働くというものだった。その中において炭鉱事故で頭がおかしくなった田中邦衛が、強烈なインパクトを残した。
また『でっかいでっかい野郎』においても、今は活気を失った炭鉱町を舞台にボブ・ディランみたいな頭をした渥美清が騒動を巻き起こすというものであった。
そして、この作品における時代から完全に取り残された芸人と、先に挙げた作品には共通した視点が存在する。
比較してみると分かりやすいのだが、東宝の植木等を主人公にした喜劇が、高度経済成長と歩調を合わせて調子よく生きる人間の劇であるのに対して、松竹の喜劇はその高度経済成長から取り残されてしまった人々、その波に乗ることができなかった人たちを中心に描く劇であるということだ。
だから他の監督の場合でも松竹喜劇の場合は設定としてスラムなどが頻出してくる場合が多い。
山田洋次のようなかしこまった作品は、むしろ例外と言えるだろう。
この野村芳太郎の弟子が森崎東や前田陽一といった監督に当たるらしい。
森崎東は渥美清を主演に据え、『喜劇 男は愛嬌』や『喜劇 女は度胸』において、さらに底辺に暮らす人たちの姿を描いていった。
また前田陽一は喜劇という形をとりながら、高度経済成長に対する恨みさえも漂わせる作品を作り上げていった。
それが松竹喜劇のむしろ王道なのではないのか。
であるから、それを代表する俳優・渥美清が「寅さん」という役しか演じられなくなった時、大いなる可能性が封印されてしまったような気がするのである。
このような「寅さん」以外の作品を見ると、その感はますます強くなる。
山本圭は病院にて入浴の介助を姉から受けている時、
「あいつと結婚してもいいんだぜ」
などといっちょまえのことを言ったが、障害者の施設に入り、仲間たちと松葉杖で歩くようになると、明るさを取り戻していった。この山本圭とその姉にまつわるサイドストーリーは、すごく効いているように思える。
羽田。夜。
綾子の叔母を名乗っていた女が通りを歩いていると、突然現れた車に轢かれてしまった。女はすぐに病院に担ぎ込まれたが、病室でうわ言のように、
「綾ちゃん。綾ちゃん」
と綾子の名前を繰り返し呼ぶのだった。
その場に居あわせた芸人への夢破れた角丸は、とにかくこのことを電報にて未だ旅の空にいるであろう綾子に伝えた。
程なくして病院に綾子がやってくると、女は、
「綾ちゃん!綾ちゃん!」
と言いながら綾子を抱擁した。
「おばちゃん。もしかしたらわたしのお母ちゃんやないの?」
急に顔がこわばる女。
「そんな、そんなことないのよ。死んだおばあちゃんがそう言ったの?」
「まあ。ええやないか。お母ちゃん照れて本当のことが言えへんのや」
勝手にそう決め付ける角丸。
女の夫、加藤嘉はある理由から耳が遠かった。
そして今交わされた会話の内容を、妹が耳のそばで告げていた。
「なにぃー!このアマ!この黒い娘がてめえの子供だとーっ!それじゃてめえパン助やってやがったんだなっ!この淫売!てめえなんかとは離縁だーっ!」
もう頭きちゃった加藤嘉は病室から飛び出したが、そこへ白人の男と、その通訳が現れた。
「てめえか!アメ公!うちのかかあ引きやがって!見舞いなんかいらねえよっ!それになんだよ!オメーも!警察みたいな格好しやがってよ!」
「この方は謝罪に見えたのです」
「謝罪なんかいるかよっ!くその役にも立たねえんだよっ!」
すると白人は小切手に金額を記し、加藤嘉に手渡そうとする。
「な、なんだよ。これはよ」
「見舞金です」
「見舞金?そんなもんいらねえよ!こっちは乞食じゃねえんだ!帰れ!この野郎!」
「兄さん。もらっておきなよ」
「この野郎。謝ってるんだろうな」
「誤っています」
「よし。じゃあ今回はもらっておいてやろうじゃねえかよ。なんだ。五万円ばっかで大きな顔するな」
「兄さん!それ五十万よ!」
さすがの加藤嘉もこれには腰を抜かしたのだった。
その頃、長門裕之はビジネスのためと割り切って、再び夫婦漫才、東京ムーラン・ルージュを復活させたが夫婦の仲は完全に冷え切っていた。
羽田の屋台。
角丸と加藤嘉はかなりメートルを上げていた。
「おりゃあな耳が悪いだろ。それにも訳があってよ。アメ公の自転車のタイヤ盗もうと思ったらよ。バカみたいな力で頭殴られてよ。それ以来、耳が悪くなっちまったのよ」
「わてにもその気持ちわかるで。戦後、わてが復員してきたらよ。あれやる時に女房が角丸、カモーン、カモーンなんて言いよるから問い詰めてみたんや。そしたらアメ公相手のパンパンしていたいうことが分かってな。おっちゃんもわても戦争の被害者なんや」
加藤嘉は酔ったまま道路に飛び出した。
「アメ公!俺を轢けーっ!やい!アメ公!俺を轢けーっ!」
車の運転席から顔を出したのはタクシーの運転手だった。
「お前みたいの轢いたらこっちが首になっちまうよ。この気狂い」
アメリカ人が事故の見舞金に五十万を出したことが、よほどカルチャーショックだったのか、加藤嘉は自らが車に轢かれて、自らが見舞金をせしめるという倒錯した行為にまで及んだ。
ここに至るまでの加藤嘉の熱演がいい。
と、いうよりもその演技は自然体そのもので、どう見てもスラム街に住んでいるアル中のオヤジにしか見えないのである。この確かな演技力が買われて、後年、野村芳太郎監督の傑作『砂の器』にも出演が決まったのであろうか。
完全に夢破れ、抜け殻状態になった角丸は病院のソファーに寝転がり、昼間から酒をあおっていた。
このままの状態でいたら加藤嘉ロードは間違いなかった。
そこに母親の看病をしている綾子が声をかける。
「なんやの。おっちゃん。一度ぐらいテレビの仕事がダメになったぐらいでそないに飲んで。情けないわ」
「わからへんのや。まだ子供に毛の生えたようなお前には、この気持ちは分からへんのじゃい」
「ああ。わからへんわ。うちなんて小さい頃からクロ、クロ言われても負けへんかったんや。そんな情けない心分からへんて。それに漫才の大事さを教えてくれたのは、おっちゃんやろ。このままでええんか」
風前の灯火になっていた角丸の芸人魂に火はついたのだろうか。
次のシーン。
温泉ランドの宴会場で漫才を披露している角丸と綾子の姿があった。そのやりとりに爆笑する客たち。
その光景の中にエンドマークが浮かぶ。
またまたAnother Side Of 渥美清を堪能した作品であった。
それにしても加藤嘉、恐るべしである。