top of page
検索
執筆者の写真makcolli

肉体の門


鈴木清順の映画については、ひとくさりもふたくさりも書いてみたいことがある。

最初、俺は清順の映画は難解でインテリ向けのものだと思っていた。だが、食わず嫌いはいけない。そう思って清順の映画を見始めた。『春婦伝』、『東京流れ者』、『河内カルメン』、『野獣の青春』、『殺しの烙印』。

60年代前半の作品であるが、そのどれもが斬新な演出に満ちていた。

だが斬新がゆえに難解という部分もある。だから清順の映画は大衆向けというわけではない。この時代にここまで作家性を突出させた監督も珍しい。

大映の増村保造も同時代において斬新だったと言えるが、増村的なものとも違う、清順の映画には何か幻想的ともいうべき芸術性が漂っている。

あまりに斬新すぎて客が入らないという理由で、清純は日活をクビになった。おそらく半世紀以上が経過した現在においても、この時代の清順の作品は斬新であり、難解なのだと思う。

映画館でもいい。家でDVDを見るのでもいい。

あまり映画に詳しくない彼女と清順の映画を見た日には、

「なに。これ。訳わかんない」

と言われるのは目に見えている。

闇市というものが好きだ。

終戦直後の焼け跡に出現したブラックマーケット。そこは生きるために人間の欲望がむき出しになった無法地帯であった。

現在の社会は理路整然としている。すべてが整っている。無菌状態である。管理社会であり、監視社会だ。システムは人間をどこまでも平均化しようとし、その下で人間の本能や欲望は押し殺されている。圧迫感を覚える。

70年前の日本の都市に出現した闇市。

そこでは闇米から拳銃までが売られていた。爆撃の残骸に生まれた人間の坩堝は、どこまでも人間の生命力に素直だった。そこは混乱とカオスに満ちていたから、弱体化していた公権力も迂闊には手が出せない力に溢れていた。

このような空間を文化人類学的には、アジールと呼ぶ。そこには暴力もあったが、同時に自由もあった。そこは人間が人間の顔をしている場所だった。俺もその一人だと思うが、今の日本人はのっぺらぼうのような顔をしている。

現在の東京の代表的な繁華街も元々は闇市だった。新宿に池袋、渋谷に新橋、上野。

ちなみに俺の婆さんもこの時代を生きた人間で、運び屋をやっていた頃、闇の豆をリュックにしこたま入れて上野駅のホームにいたら、お巡りに捕まって。

「鳩ぽっぽっじゃあるまいし!こんなに豆ばっか担いでどうするんだ!」

と言われ、

「すいません!家にはお腹を空かせた子供が三人いるんですーっ!」

と泣き落としに出たら、

「今度だけだぞ」

と許してくれたそうである。そんな時代だった。

パンパン、パン助と呼ばれた女たちがいた。

闇市が闇米から拳銃までを売る場所であったと先に記した。つまり売れるものならなんでも売買がなされていたのだ。その中でパンパンはセックスを売っていた。

自らの身体を売ることで糊口をしのいでいた女たちだった。

ボルネオ・マヤは17歳でパンパンになった。

兄はボルネオで戦死し天涯孤独の身になった。もんぺ姿で闇市の喧騒にたじろいていた時、警察のパンパン狩りに出会い間違って捕まった。

「仕事。ありませんか」

闇市裏の瓦礫の中でマヤは、腕に関東小政と刺青を入れているおせんに聞いた。関東小政は有楽町から勝鬨橋界隈を縄張りにしているパンパン・グループのリーダーだった。

マヤは金を持っておらず、

「うちのふかし芋はそこらの芋とは違うんだよ。埼玉は川口から仕入れてきたれっきとした芋なんだからね。この芋を食べてりゃ栄養不良なんかにゃならないんだよ」

と親父が威勢良く啖呵売をするふかし芋屋から、マヤはその芋を万引きした。が、すぐに闇市を仕切っている組の若頭かなんかの和田浩治に捕まり、痛い目を食らわされた。

闇市に寸胴にいっぱい入った米軍のシチューがトラックに乗せられて運ばれてきた。

その荷台に群がる乞食だがルンペンだか分からない男たち。その男たちを組の者が蹴散らす。すぐに売られるシチュー。我先にと皆、シチューを買い求めるが、シチューをすすっている男の口から出てきたのはコンドームだった。

こんなバカな話ある訳ないと思うかも知れないが、この話は『東京闇市興亡史』という本にも書いてある実話だ。

闇市で売られていたシチューとは、米軍の残飯だった。それでも当時の日本人は米軍のシチューは栄養が満点だと喜んでいた。

そんな闇市の中でマヤの瞳は野性的な光を放っていた。

関東小政の寝ぐらは爆撃を受けた建物の地下の廃墟だった。そこには小政の他にジープのお美乃、ふうてんお六、一見パンパンには見えない和装を着こなした町子、そして白い服の女がいた。

だが白い服の女は掟を破ったということで、みんなからリンチを受ける羽目になり、頭を丸坊主にさせられた。

パンパンたちの掟というのは、他のグループに縄張りを荒らさせない。タダで男と寝ないというものだった。それが身一つで混沌の中を生きていかなくてはならない彼女たちの結束の証だった。

そして、その結束を破った者には容赦ない制裁が待っていた。

映画『肉体の門』は、かように終戦直後の闇市に生きるパンパンと呼ばれた女たちを描いた作品である。

この作品が素晴らしいと思える要素は随所にある。まず作品をほぼオールセットで撮っているということだ。オープンセットで再現された闇市がいい。空襲後の廃墟に自然に生えてきたような露天が立ち並び、そこに行き交う人々の熱気さえ感じることができる。見ているだけで、闇市の迷路の中に吸い込まれるようである。

その中にも清順の演出が光る。

まずパンパンたちの衣装が面白い。小政は赤、お美乃は紫、お六は黄色、そしてマヤは緑とそれぞれ決まった色のドレスを着ていて、まるでゴレンジャーのようである。

マヤが小政に仕事を頼んだ時、突然時制は過去に戻り、そこでマヤは米兵にレイプされていた。その現場に現れ、救いの言葉をかけたのは黒人の牧師であった。

逆にその過去があったから思い切ってパンパンになることができたのか。マヤは小政たちと一緒に闇市で客を引くのであった。

「ねえ。お兄さん。遊んでいかない」

「そんな金持ってねえよ」

「ちぇっ!金ないならここらをウロチョロするんじゃないよ!」

マヤはすぐに一人前のパンパンになった。

野川由美子は、この作品が映画デビュー作である。

その後も清順監督作品の『春婦伝』、『河内カルメン』と立て続けに主演を張るぐらいだから、清順にはよほど気に入られていたのだろう。

さらに60年代から70年代にかけて彼女は、日活に限らず東映、松竹、東宝と会社を股にかけて活躍してゆく。ある意味、邦画には欠かすことができない女優へと成長していった。

だが現在、通販番組で声を張り上げている彼女を見る限り、大女優としての評価を得ているとはとても思えない。

逆にフリーの女優として会社を選ばず、役柄を選ばずにこなしてきたことが災いしたのか。例えば東映作品にして野川由美子の主演作『尼寺博徒』は、尼+任侠てなもんで、こんな作品、絶対吉永小百合は出演しなかっただろう。

しかしである。邦画界のどぶ板通りを歩いてきた女優・野川由美子はもっと評価されてしかるべき存在であると思うが、どうであろうか。

エースの錠は米兵とつるんで、PX(なんか当時の米兵専門百貨店みたいらしい)から物資を盗み出した。だがエースの錠は米兵と仲間割れを起こし、その米兵を刺したが、自分の太ももにも傷を負った。

負傷し手負いの獣のようになった錠は、小政たちの寝ぐらにたどり着いた。

「なんなのさ!あんたは!」

「心配するねえ。迷惑はかけやしねえよ。それより焼酎を買ってくれやしないか。金ならあるんだよ」

錠の太ももから血が流れているのを見た小政は、

「ははん。あんただね。米兵をやったっていうのは。大した度胸があるじゃないか。マヤ。焼酎を買ってきてやんな」

雨の中を急いで走りマヤは焼酎を買ってきた。その焼酎を錠は口に含むと、おもむろに傷口に吹き付けた。

「こうやってりゃ傷なんて自然に治るもんなんだよ」

「へえ。そんなもんかね」

「俺は地獄の戦線をくぐり抜けてきたんだぜ。こんなものなんでもねえよ」

とは言うものの傷が治らない錠は、小政たちの寝ぐらに居候を始めた。

寝ぐらにはシャワーがある。だが残骸のためそこには壁がない。錠は引き締まったケツを、女たちに見せつけた。小政をはじめ、マヤ、お六、お美乃たちは傷ついている錠の世話を焼きはじめた。女たちだけの共同生活空間に錠が入ってきたことによって、何かが代わり始めようとしていた。

パンパンの中でも異質なのが町子であった。

他の女たちがいかにもなパンパンルックなのに対して、一人和装を着こなし、楚々とした雰囲気を醸し出していた。

彼女は戦災未亡人であった。当時、彼女のように戦争によって夫を亡くした女は数え切れないぐらいいただろう。そして、どこにも頼るべき存在のない女たちは、自らの身を売るパンパンに堕ちていったことだろう。

パンパンの中には、そんな境遇の女も少なくなかったのかも知れない。だが、そんな自分たちとは異質な町子を小政たちは内心、快く思っていなかった。

一杯飲み屋のようなところで、町子はマヤに言った。

「マヤちゃんはまだ女の本当の喜びってものを知らないのよ」

「そのマヤちゃんて言うのはやめてくれないかな。マヤでいいよ!マヤで!」

町子には馴染みの客がいた。

その客と寝る時、町子は普通の家庭の妻に戻りたいと言うことを漏らすのであった。情が移った町子は、ついに金を取らずにその客と寝てしまった。

その様子を向かいの部屋から見ていたのが、ふうてんお六であったというのが町子の運のなさであったのだろう。

お六が小政にことをチクったのは言うまでもない。

町子が寝ぐらに帰ってくると、小政が強い口調で言った。 「やい!町子!今すぐここで服を脱ぐんだよ!」

「な、なんのことなの?」

「しらばっくれんじゃないよ!あたいはこの目であんたがタダで客を取ったのを見ていたんだよ!」

「やっちまえー!」

丸裸にされた町子は両腕をロープで縛られ、天井から吊るされた。

「ほう。なんだか知らねえけど面白いもんが始まったぜ」

そう錠が言うと小政はカミソリを持って、

「もっといいもん見せてやるよ」

と言って、町子の隠毛を剃りはじめた。うまく照明で下半身は影が当たっているようになっているが、オッパイはバッチリ映っている。

そこに隠毛を剃るシーンである。1964年において、この作品はショッキングだったのではあるまいか。

錠の顔のアップ。その画面、右半分にグラスに注がれたビールが映っている。そこに女の話し声だけが流れてくる。

しばらくそれが続くと、そこが一杯飲み屋であり、錠がビールを飲んでいて、隣に座っているのが町子だということが分かる。

闇市の雑踏を歩く錠と町子。

「あなたもあの女たちの味方ですの」

「とんでもねえ。あんなハツカネズミみたいな女たちは、いつか握りつぶしてやりてえんだ」

と言って、町子と寝た。

かたや闇市の雑踏の中でマヤは米兵に声をかけられ、

「OK」

なんて言っていた。そこに現れたのが例の黒人の牧師であった。牧師はこの娘は違うんだ、みたいなことを米兵に言ってマヤに、

「Let’s Go Church」

と言って教会に誘った。

丘の上には教会がある。思いっきり書き割りの教会。清順が演出上そうしたのか、予算的なことでそうなったのかは分からない。

しかし、その丘はセットで草が生い茂り良くできている。その丘で牧師はマヤに、もうこんなことはやめるんだ的な説教をしはじめたが、マヤは、

「あたいは悪魔になるんだ」

と言い出し、牧師が首から下げていた十字架の首飾りを引きちぎり、牧師を誘惑しはじめた。

「No! No! Stop! Stop! Maya! What’s Going On!」

みたいなことを牧師は言ったが、男の本能には勝てなかった。

マヤが去った丘では、ひざを崩して牧師が一人号泣していた。それは自らの立場に対する贖罪の現れであったのだろうか。

朝。マヤが運河沿いを歩いていると、

「おーい!土左衛門だぞー!」

の声が上がった。マヤが運河に目を落とすと、そこにはむしろに乗せられて運ばれていく牧師の死体があった。マヤは唾を吐いた。

「俺と寝ないかい」

「金は払ってもらうよ」

「ちぇっ。日本の女も戦地のピーみたいになりやがった」

「なに言ってんだい!日本の男がだらしないから戦争に負けたんじゃないかよ!」

「俺のせいじゃねえや!それより俺はペニシリンを持ってるんだよ。お前なら顔が効くだろう。どっかにうまくさばけるルートはねえかい」

遠くでサイレンの音が鳴る。

「おっと。MPのやつが来やがったぜ。じゃあ。よろしく頼むな」

そんな会話を小政と交わすと、錠は窓から暗闇の中に紛れて行った。

この話を小政は和田浩治に持ちかけた。そして和田浩治は話を親分である野呂圭介に通したのである。

野呂圭佑。

そう書いてもぴんと来る人は少ないだろう。だが、俺ぐらいの世代の者だったら「ドッキリカメラ」でいつもドッキリが終わった後に、「ドッキリカメラ」と書かれたプラカードを持って現れて、赤いヘルメットを被っていた人と書けば、遠い記憶の中から、その人物像を手繰り寄せることができるかも知れない。

俺にとっても野呂圭介は、「ドッキリカメラ」の人でしかなかった。

しかし貪るように邦画を見るようになると、野呂圭介が日活の俳優であったことが判明したのである。そして、映画『肉体の門』において野呂圭介は闇市を牛耳るボスとして登場するのだ。

白のスーツを着こなした野呂圭介が闇市に現れる。

その姿は他の闇市を闊歩する者たちと比べれば、明らかに異質だ。錠との取引の場所は運河沿いのルンペンたちがたむろするところだ。このシーンが秀逸である。

MPや警察にバレないように、錠も野呂圭介もルンペンたちと一緒に地面に寝転ぶ。錠は指を五本差し出す。

「いいだろう」

と言って、野呂圭介は万札を五枚取り出した。

「だが俺は汚れた服は二度と着ない主義でな。一万、服代で差し引いておくぜ」

結局、錠はペニシリンの前金として四万を手にした。こんな格好いい野呂圭介を見たことがあるだろうか。

錠がいなくなったあと、寝ぐらで女たちは惚けたようになっていた。

「あーあ。新ちゃん(錠のこと)帰ってこないかなー」

「うるさいね。新ちゃん。新ちゃんって」

そう言う小政も内心では錠のことが気になってしょうがなかった。この女たちの内心の表現も面白い。小政、お美乃、お六、マヤと順番に内心を語るのだが、例えば小政なら赤いドレスに赤い背景、お美乃なら紫のドレスに紫の背景と決まった色のカットになっている。

その中でマヤは、

「なんか新ちゃんって、お兄さんみたいな感じだなー」

と少女のように語っていた。

朝の闇市。

その人気のない通りを爺さんが牛を引いて歩いている。しかし、彼がちょっと目を離した隙に牛はいなくなってしまった。女たちが錠のことを恋い焦がれているのは明らかだった。

その寝ぐらへ降りていく階段に、突然牛が現れた。

「きゃー。牛―っ!」

叫ぶお六。牛を連れて現れたのは錠であった。

「どうしたのさ。その牛」

「へへへ。ちょっとな」

「この牛をどうするのよ」

「まあ。見とけよ」

そう言うと錠は牛に目隠しをして、その眉間にハンマーを振り下ろして屠殺した。そして、その皮を剥ぎ腹にナイフを入れると内臓を取り出した。どっと溢れ出る血液。さらに肉を部位ごとに解体してゆく。これほど屠殺の様子を詳細に描いた映画もそうないだろう。

「へえ。手慣れているんだね」

「あたぼうよ。戦地で食料がなくなった時は、よくやっていたんだ。でもこれだけの量はよう俺たちだけじゃ食えねえから、さばいてくるぜ」

そう言うと錠は巨大な肉の塊を持って闇市を闊歩した。

その様子を見た爺さんは、

「あ、あのー」

と錠に話しかけようとしたが、錠は素知らぬ顔を決め込んだ。

再び錠が戻った寝ぐらは宴となった。

「もう。じゃんじゃん。食って飲もうぜー。メチールだけどよ。死んでも知らないぜ」

「よーし。メチールだろうと何だろうと思いっきり飲むんだ」

メチールとは終戦直後に出回った工業用のアルコールだ。物資の乏しかったこの時代、メチールは酒の代用品として出回ったが、これを飲んで命を落としたり、失明する者も少なくなかった。

かく言う俺の爺さんも終戦の翌年に、メチールを飲んで36歳で死んだ。

寝ぐらは謝肉祭の場となった。

余るほどの牛肉を頬張り、余るほどのアルコールをあおる者たち。飲めや歌えやの大騒ぎになったが、突然錠が出征する時に贈られた日の丸を取り出した。そこには寄せ書きが記されていた。

そして錠はその日の丸を頭から被ると、両腕でスボンのひざを握りしめ嗚咽を始めた。彼の中には終わったばかりの戦争に対する複雑な思いがあったのだろうか。

「なんか。変な空気にさせちまったな。とことん飲もうぜ」

「そうこなくっちゃ!」

さらに酒宴は盛り上がっていく。だがマヤを残して、小政、お美乃、お六の三人はそのうちに酔いつぶれてしまった。マヤは錠を前にして、兄の思い出を語り始めた。

「お兄ちゃんたらね。鬼ごっこをしていた時、本当の鬼の面を被ってね」

そこに頭に鬼の面を着けた錠の姿がインサートされる。さらにマヤの語りが進んでゆくと、廃墟の寝ぐらの画面に兵隊の姿が重なり映し出される。

これこそ清順的な演出だと言えるだろう。

一つの画面に現在があり、その中に人物の内面が映し出されたり、過去の時制が映し出される。斬新ではあるが、見ている側としてはややもすれば混乱してしまうような演出だ。

これと同じような演出をする監督がいる。日活ロマンポルノで高い評価を得た神代辰巳ただ。

神代辰巳は日活で『かぶりつき人生』のような一般作を撮っていた時、あまりに客が入らないということで干されていた。

しかし日活がロマンポルノに転向し、お鉢が回ってくるようになると、作品を量産しはじめ評価を得るようになったが、その評価というのはロマンポルノの中に芸術性を持ち込んだというものであると思う。

神代辰巳作品も難解な表現が目立つ。

一つのシーンの中に現在があり、その中にワンカット過去の映像が入っていたり、さらに未来の映像が入っていたりする。

見ている方としては、やはり混乱してしまうのだ。そういった意味において、日活の中で清順的要素を一番に継承したのは、神代辰巳であると見ているが、この考えは的外れであるだろうか。

いつの間にか錠も酔いつぶれてしまった。

その錠を見つめていたマヤは我慢できなくなった。寝ぐらは運河に面していて、そこには一艘のうんこ船が浮かんでいた。マヤはその船に錠を運ぶと、その体に抱きついた。

意識を取り戻した錠は、何が起きているのか察し、マヤの体にしゃぶりついた。そして言った。

「お前さえ良ければ二人して全然知らない土地に行って暮らしてもいいんだぜ」

そう言うと錠は寝ぐらをあとにしたが、その一部始終を見ていたのは小政だった。

彼女も意識を取り戻した時、錠を誘惑するつもりでいた。だが錠の姿はどこにもない。そして目撃したのは錠とマヤが抱き合う姿だった。彼女の体の中は嫉妬の心で猛り狂った。

「分かっているだろうね。マヤ」

マヤは全裸にされた上に両腕をロープで縛られ吊るされた。そこに小政が容赦なく鞭を打ち付ける。

しかし、この時点で女優・野川由美子の覚悟と度胸というものを感じる。何しろこの作品が映画初主演である。なのに全裸で吊るされてパイオツ晒して、鞭で叩かれるのである。

むしろ彼女のこの何でもやります的な態度がのちのち災いし、高評価を得られなかったのであろうか。

とにかくマヤはこうしてパンパングループから追放された。

朝。錠は初老の知り合いの男の家の縁側に座っていた。

「預かってもらっていた物を返してもらえませんか」

錠がそう言うと、男はタンスから小包を出してきた。

「返すのはいいが中には何が入っているんかの」

「戦友の遺品なんかでしてね。これから少しずつ返しに歩いて回ろうと思っているんです」

「そうか。それはよいことじゃ。あんたも達者でな」

「ええ」

そう言うと錠はその家をあとにした。

小政は和田浩治のもとへ走った。

「新太郎のやつ。ペニシリンを持ってトンズラここうとしているよ」

「なにい。あの野郎。おい。すぐに組の者集めてこい」

「へい!」

錠が運河沿いの場所にいる時、そこに和田浩治を筆頭に組の者が集まってきた。

「やい!てめえ!話が違うじゃねえかよ!」

「なんのことだ」

「とぼけるんじゃねえ!」

そう言って和田浩治は錠から小包を奪うと、それを開けてみた。するとそこに入っていたのは兵隊の遺影などであった。

マヤは走ってこの場所にやってきた。

だがそこはすでに静寂に支配されていて、ただ運河に例の日の丸が浮かんでいた。

高いアングルから闇市を映し出すカット。そこに突然インサートされるマヤの述懐。 「こうしてわたしは落伍者になりました。しかし、落伍者には落伍者なりの幸せがあると思うのです」

そこに浮かぶ「完」の文字。こうして作品は終わった。

そこかしこに清順的な演出が施されている。

だがこの作品は清順の作品の中では見やすい部類に入るものだろう。そして、そこそこヒットもしたのではないかと思う。

そして作品を通して終始、野性的な野川由美子もいい。誰かもっと野川由美子を再評価してくれもいいのではなかろうか。

閲覧数:182回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page