森崎東が演出する渥美清は、あんなにも凶暴なのだろう。
羽田、蒲田。京浜急行。工業地帯。そこに生きる電機工場の女工。町工場の青年。
新宿や本牧ではラリラリハレハレな時代が続いていたと思われるが、京浜工業地帯の若者たちは、歌声喫茶に集まり、岡林信康の「クソクラエ節」を熱唱することで、日頃のうさを晴らしていた。
そんな歌声喫茶で偶然知り合った倍賞美津子と、河原崎健三は恋に落ちて行った。しかしクラッシックを愛する河原崎には、がさつという言葉を通り越して、凶暴極まりない兄、勉吉(渥美清)がいた。
羽田の海べりにオッタッているバラック集落。その集落を海側から見たカットでは、集落の上に大企業のネオン管版が毒々しく、光り輝いている。
そんな半分スラムな家の自室とも言えない一角で、河原崎はヘッドファンを耳にあて、ベートーベンを聞いているが、そこへ渥美が酒に酔って、女を連れて帰宅。なりゆきで親父の花沢徳衛と激しいケンカを勃発させる。
「このクソじじい!ぶっ殺してやる!」
「おう!やれるならやってみろ!このどら息子!」
「よーし!やってやるよ!」
バットを振り回しながら、暴れ回る渥美。徳衛をおっかけまわしながら、向かいの家まで乱入してゆく。
この作品を観ていて思ったのは、カットを細かく割らないで、長回しを多用しているということだ。これは渥美と徳衛の掛け合いを、つまり役者の演技を殺さない、撮り方だと思う。還元すれば、そこまで見せてしまう役者としての力量が、渥美清にも花沢徳衛にもあったということだ。
ケンカに割って入る河原崎。
「毎日、毎日ケンカばっかりしやがって!こんなのが家庭って言えるのかよ!家庭って言うのは明るい未来を語り合う場所じゃないのかよ!」
きょとんとする渥美。
「おまえ、難しいこと言うなあ。インテリだなあ」
河原崎は渥美と徳衛のケンカにも表情ひとつ変えず、内職をしている清川虹子に問いかける。
「母ちゃんはこんな家、飛び出してやるって思ったことないのかよ。なけりゃ人間じゃない。豚だー!」
「あたしゃ豚だよ」
その窓の向こうには、旅客機が飛んでいる。
そしてすべての事件は、河原崎が倍賞美津子に送ったゲーテの詩集を、倍賞美津子と同じ工場で働いていて、アルバイトでコールガールをしている女、つまりこの女が渥美の愛人というか、入れあげている女なんだけど、この女が詩集を渥美に貸してしまいボットン便所のなかに落としてしまったことから始まった。
河原崎が渥美に詩集の出所を聞くと、四つ星電気という倍賞美津子が働いている工場のコールガールをしている女からもらったという。そのことから、河原崎は倍賞美津子がコールガールをしていて、渥美とチンチンカモカモしていると勘違いが発生。
実際、この作品の渥美はメッシュのシャツを着て、頭に赤いタオルの鉢巻きを絞め、普段はダンプの運転手をしていて、その荷台の上で昼日中から愛人とセックスにおよぼうとしたり、その愛人のことを「メスゴリラ」と呼んだり、「ウンコしてこい。ウンコ」と口走ったり。渥美清=車寅次郎というパブリックイメージを、ことごとく粉砕してゆく。
まだPunkなどという言葉もなかった頃、この勉吉というキャラ、そしてそれを体現してみせた渥美清は、すでにPunks Not Deadな精神を高らかと表明していたのだろう。
いや違う。Punkの刹那的な暴力性などとは比べ物にならない、渥美清の前にあってはPunkなどはなたれ小僧にしか過ぎないということを、『喜劇 女は度胸』、そして森崎東は証明したのだ。
倍賞美津子がコールガールかどうか確かめたくなった河原崎は、渥美に頼んでコールガールを斡旋している今川焼屋に行く。そこの親父が有島一郎。
「なんだあ。お前も瞳を抱きたいっていうのかあ?それじゃあ、俺たちゃ兄弟になっちまうじゃねえかよ。あっ、なんだ。もともと俺たちゃ兄弟じゃねえか。ガッハッハッハッ」
と渥美。
その瞳という女を、徳衛も買いに行ったことが判明すると、
「やい!このヒイヒイジジイ!てめえみてえのが、女買いに行って、はい。そうですかで済むわきゃねえんだ!瞳を抱いたんだろ!俺の瞳をよっ!それじゃあ俺たちゃ親子丼ぶりって訳か?冗談も休み休みにしろ!ぶっ殺してやる!」
と渥美。そこに虹子がぽつり、
「親子丼ぶりなんかじゃないよ・・・」
「あんたと勉吉は血がつながってないんだよ」
「それじゃあ、やっぱりてめえ。俺が戦地に行っている間にあいつと?」
「そうさ。勉吉のタネは光夫なんだよ」
「どうりでこのアマ。戦地から帰ってきたら、身に覚えのない四角い顔したガキが、俺のこと嫌な目つきで睨んでやがって、嫌な予感がしたんでえ!」
半狂乱になる徳衛。
「ガッハッハッハッ。おいクソ親父、俺たちゃ血がつながってないんだとよ。おもしれえじゃねえか」
そこから集落全体を巻き込む大げんかが勃発。
その後、家族、倍賞美津子、勉吉の愛人を合わせた会合がボロ屋で開かれることに。そこに虹子が取り出したのは、あのボットン便所に落下したゲーテの詩集で、虹子はそれを綺麗に洗っていた。河原崎に向かって、
「おまえが、この娘さんに向けた疑いの心は、この詩集の汚れのように一生消えないんだよ」
この言葉がぐっとくる。最後は河原崎と倍賞美津子はめでたく結ばれるのだが、久しぶりに見応えのある映画を見た。
森崎東の底辺に生きる人間たちに向けた、熱いまなざしを感じた。人間讃歌、バイタリティー、肥だめの中のゲーテの詩集。これが森崎東初監督作品であることに驚いたが、ここに原点があるとも思った。
あと重要だと思ったのは、一緒に見ていた親父とお袋が爆笑していたということ。実は映画にとって一番大事なのは、一部の映画マニアやオタク、インテリを喜ばせる作品じゃなくて、そこらへんに転がっているおばちゃんや、おっさんを笑わせたり泣かせたり、ハラハラさせることだと思う。
映画は娯楽でいいのだ。
そういう意味でも俺は、同じ松竹でも大島渚や吉田喜重、篠田正浩のようなヌーヴェルバーグ一派よりも、森崎東や前田陽一、渡辺祐介などの反ヌーヴェルバーグ派のほうを信用する。
「ウンコしてこい。ウンコ」