「それはまだ東京の空に雁(がん)が飛んでいる頃の話です」

「それはまだ東京の空に雁(がん)が飛んでいる頃の話です」
大映映画『雁』は、このようなナレーションから始まる。
手っ取り早くこの作品のストーリーを言ってしまえば、妾の女が学生に恋心を抱くが、その学生はドイツに留学してしまうことになり、結局その恋心は儚く消えていく、というものである。
原作は森鴎外。もし森鴎外の原作を、この映画が忠実に描いているとなると、その原作もステレオタイプな物語の域を脱していないと感じてしまった。
なぜこうも大映の映画というのは、妾や愛人を描いたものが多いのだろうか。その中で展開される愛憎劇というものは、本当に大映が得意とする分野だ。
その問いに答えを導き出すとするなら、大映黄金期の時代は特に文芸映画を中心に、婦人映画、今風に言えば女性をターゲットにした映画が量産されていたのではないか。
例えば時代劇や任侠映画と言った男性向けの映画が多かった東映は、比率的に見ても圧倒的に男優の層が厚い。それに対して大映は女優の層が他社に比べて、圧倒的に厚いのだ。
その大映の看板女優の一人であったのが、若尾文子であったことには異論はあるまい。
ファーストシーン。その若尾文子が貧乏長屋で、鳥の飴細工に色を着けているところに、口入れ屋のやり手ババアである武智豊子が、いろいろしゃべりたてる。
「そりゃね。お妾さんって言ったてね。もう女将さんは亡くしちまって、後添えのようなものなんだよ。商売のほうもね。立派な呉服屋を営んでいて、そりゃもう評判なんだよ。どうだいお玉ちゃん。こんないい話、あたしゃないと思うんだがね」
「おばさん。ちょっと考えさせて」
お玉(若尾文子)の父親は、今では完全に消滅した職業だが、飴細工売りだった。鳥やウサギを形どった飴を、屋台を担ぎながら行商していたが、もう歳と言った感じで屋台を担いで長屋に帰ってくるのもやっとと言った感じだった。
お玉はとにかく、自分を妾にしたいと言う男、末造と料亭で会ってみることにした。
そこは学生たちが同窓会を開いてもいて、どんちゃん騒ぎをして、確かに「革命歌」のメロディーを歌っていたが、その酒宴の席に一人の男が入っていく。すると学生たちは、皆嫌な顔をした。
「田中さん。もう今月の期限切れているんですからね。ちゃんと返してくださいよ」
「わかっているよ」
その中年の男は高利貸しで、皆から嫌われている。
お玉は個室で件の男を待っていたが、ふと庭に目をやると学生、山本学がいた。だが明治時代の学生である。上は学帽を被り、下には袴を着け、さらに下駄を履いていると言うバンカラスタイル。
しかし山本学という俳優は、インテリの感じを出すのが非常にうまい。お玉は岡田(山本学)と視線が合ったが、そのまま障子を静かに閉めた。
と部屋に入ってきたのが、さっきの高利貸しの男だった。お玉は何も知らず、末造の妾になった。
上野、無縁坂にある家に、お玉は末造から家を与えられ、妾として暮らす生活が始まった。家にはお梅という女中がいて、お玉の身の回りのことは、食事から洗濯から何でもしてくれた。だが、お玉の生活費、小遣い、お梅を雇う金もすべて末造が出していることは言うまでもなかった。
「ダメだね。こんなもの。利息の足しにもなりやしない」
「そう言わないで。これでなんとかなりませんか」
懇願している女は反物を扱っているようであったが、赤ん坊をおぶっていて、生活に困窮しているようであった。
末造が無碍に金を貸すのを断ると、女はうなだれた様子で帰って行った。
「あなた。かわいそうじゃないですか」
「お前は高利貸しの女房にしては甘いんだな。そんなことでは商いはできんぞ」
末造の女房役は山岡久乃であった。
ここのところ若尾文子の映画を立て続けに見ている。『女は二度生まれる』、『砂糖菓子が壊れるとき』。そしてこの『雁』。この三本に山岡久乃は出演していて、必ず若尾文子に夫を取られると言う役柄なのだ。何か若尾文子に夫を取られる役=山岡久乃みたいなルールがあったのだろうか。
お玉はお梅に魚屋に買い物に行ってくれるように頼んだ。お梅は言われた通りに買い物籠を持って、近くの魚屋に行った。
「女将さん。いいところちょうだい」
「ふん。何言ってんだよ。こっちは高利貸しの妾になんか売る魚はないんだよ」
お梅は家に帰り、お玉に言われた通りのことを伝えた。この時代、高利貸しという存在は相当に世間から嫌われていたと見える。
末造は毎日のように無縁坂の家にやってくるのだった。そして、お梅に金を渡すと銭湯に行かせ、お玉と二人きりになり、彼女の身体を求めるのであった。
そんな末造の生活を山岡久乃が気づかないはずはなかった。
「あなた。なんでも無縁坂の辺りに妾を囲っているって言うじゃありませんか」
「何を藪から棒に言うんだ。俺はもう寝るよ」
末造はあくまでもシラを切り通すつもりだった。だが、やがて山岡久乃は無縁坂の家の周りをうろついたり、やつれた顔をして夜現れたりして、お玉を追い詰めていった。
無縁坂の家は庭を通じて、裁縫のおっしょさんの家と隣だった。自然とお玉はおっしょさんと親しくなっていった。
「きゃー!井口さんが通ったわよ!」
「えっ!どこ!どこ!」
おっしょさんは、家に女学生を集めて裁縫を教えていた。
「まあ。なんでしょうね。近頃の女学生は。あんなに騒いでも、どうにもなるものじゃないんですけどね。ああ。この方ね。反物の行商をしているんですよ」
そう紹介された女は、末造の店で金を貸してもらうのを断られた赤ん坊をおぶった女だった。女がふとお玉の家の縁側に目をやると、そこに見覚えのある反物があった。
それは末造がお玉に与えた物であったが、元々は女が借金のかたに末造に渡したものであった。その反物を見るなり女の態度が豹変した。
「ちきしょう!あどけない顔をして高利貸しの妾になんかなりやがって!こっちがどれだけ辛い思いで生きているのかわからないだろ!」
その場はおっしょさんが間に入ってなんとか治った。
「おとっつぁん。みんな嘘だったのよ。立派な呉服屋をやっているなんていうことも。奥さんだってきちんといるのよ」
「そう言ってもなあ。もう、おとっつぁんは飴屋に戻れないよ。あんまり、おとっつぁんをいじめないでくれよ」
おとっつぁんは盆栽をいじりながらそう言った。おとっつぁんが隠居暮らしをしているその家も、末造から当てがわれているものだった。
次第にお玉は孤立していった。
そんな時、あの料亭で見かけた岡田が毎日、無縁坂を通ることをお玉は気づいた。そして、いつしか岡田が家の前を通る時間を待ち焦がれるようになった。
ある日。お玉が軒先につるさげている小鳥の籠を見ようとしたら、そこに蛇がぶら下がっていることに気づき慌てふためいた。
「お、お梅!誰か!誰か人を呼んでーっ!」
蛇はその体を這わせ鳥籠の中に入ろうとしている。そこに通ったのが岡田だった。
「はやく!台と包丁を持ってきてください!」
お梅が言われたものを用意すると、岡田は台の上に乗り、包丁で蛇を切って殺した。
「君。これをどっかに捨ててくれたまえ」
「へい。そこのドブにでも捨てておきやしょう」
そう答えたのは、どこかの丁稚のようであった。
「あの。お上りになりません」
「いや。僕急いでいますんで。手を洗わせてもらえれば結構です」
旅館のようなところで岡田は、同期生の井川比佐志とだべっていた。
「あの様子だと、あの人はどこかのお妾さんって言うところかな」
「お前もお安くないな」
「そんなんじゃないんだよ。それよりも今度の試験のことが気になっているんだ。受かればドイツに留学できるからな」
「そうだな。それでお前も一気に立身出世の道が開けるというものだからな」
雨の降る日。岡田は無縁坂の家の近くの軒先で、雨宿りをしていた。それを見たお玉は番傘を差し出した。
「あの。これを」
「ありがとうございます。いずれまたお礼に伺いますので」
そう言うと岡田は歩き始めた。その後を追っていくお玉。岡田が足を止め、入っていった店は末造の店だった。
「おじさん。そこをもうちょっと頼むよ」
「だめですね。学生さん全員が出世するとは限らないんだ。出世払いならお断りですよ」
「洋行できるか、できないかの重要なところなんだよ」
岡田は末造の店から出ると、隣の古本屋に入り、持っていたドイツ書を売った。その店の中にお玉は気づかれないようにいて、岡田が出ていくとすぐに、そのドイツ書を買い直したのであった。
同期生たちが集まっているところに、岡田は駆け込んできた。
「やった!やったぞ!ドイツ行きが決まったんだ!」
「でかしたじゃないか!とうとうやったな!」
「今夜は派手に岡田の壮行会と行こうじゃないか!」
その日、末造は商用で夜まで無縁坂の家には来ないことがわかっていた。お玉はお梅に暇を出し、里帰りさせた。そして自分は髪を結い直し、手料理を用意して、また岡田が家の前を通るのを待っていた。
すっかり当たりが暗くなってきた頃、岡田の声が聞こえてきた。だが、岡田は一人ではなく、井川比佐志と一緒だった。
「いやあ。もうお前といつ会えるのかもわからんなあ」
「ああ。ドイツに行ってしまえば、いつ帰って来られるかわからんからな」
「あそこにいる人が、いつか言っていた。お妾さんかい」
「そんなに大きく言うなよ。失礼じゃないか」
「まあ。今夜は富士楼で大いに飲もう」
その話を聞いてお玉は愕然とした。そして、その愕然とした心のまま、あの魚屋に行った。
「鯛の一番いいのを富士楼、いや無縁坂の高利貸しの妾の家に届けて」
「へい」
お玉が家に帰り呆然としていると、そこへ末造が入ってきた。そして用意してあった料理を見て言った。
「なんなんだ。これは。俺のために作ったんじゃないんだろう。髪なんか結い直して。さてはあの岡田という学生に惚れたか。だが妾と学生でしょせんはどうなる。それに岡田はヨーロッパ行きが決まったんだ」
そこへ、
「注文の品、お持ちしましたよ」
鯛を持って魚屋の女将が現れた。
「こんなものに払う金はない。とっとと持って帰れ」
「帰れってたってね!こっちは注文を受けちまったんですよ!なまもんなんでね!今更持って帰ることもできないんですよ!」
「いいから!それは置いて行って!」
女将が出ていくと、末造は鯛の乗った皿を蹴飛ばした。
「あたしだって!あたしだって!」
お玉はそう言って泣き崩れると、ドイツ書を手に取り、家を飛び出して行った。
そして、富士楼近くに来ると、そこには井川比佐志がいた。
「ああ。あなたでしたか。無縁坂の。いや。岡田から話はうかがっていたんです。でも、岡田はもう遠いところへ行ってしまいますよ」
「あのこれ。岡田さんに渡していただけないでしょうか」
「あ。これは岡田のドイツ書。いいですよ。必ず渡しますから」
お玉は一人、不忍池の近くにやってきた。そこに近づいてくる馬車。その中には笑顔の岡田とドイツ人が乗っていた。
そして不忍池から一羽の雁が飛び立つ。
無縁坂の家の前に立っているお玉。彼女はしばらくそこに立っていたが、またその玄関の中に入って行った。そこに被さる「完」の文字。
思わず「それでおしまいかい!」と突っ込みを入れたくなった。
冒頭にも書いたが、ストーリーがステレオタイプ過ぎて、何もドラマが発生していない気がするのだ。監督の池広一夫という人は聞いたことがない。だが文芸作品らしく格調高く撮っているつもりなのかもしれないが、お玉、女の恋心は昇華すれば情念にも通じるというような感じにはなっていない。
せっかくの一級の素材である若尾文子を活かしきれなかった。そんな作品だった。
大映映画『雁』は、このようなナレーションから始まる。
手っ取り早くこの作品のストーリーを言ってしまえば、妾の女が学生に恋心を抱くが、その学生はドイツに留学してしまうことになり、結局その恋心は儚く消えていく、というものである。
原作は森鴎外。もし森鴎外の原作を、この映画が忠実に描いているとなると、その原作もステレオタイプな物語の域を脱していないと感じてしまった。
なぜこうも大映の映画というのは、妾や愛人を描いたものが多いのだろうか。その中で展開される愛憎劇というものは、本当に大映が得意とする分野だ。
その問いに答えを導き出すとするなら、大映黄金期の時代は特に文芸映画を中心に、婦人映画、今風に言えば女性をターゲットにした映画が量産されていたのではないか。
例えば時代劇や任侠映画と言った男性向けの映画が多かった東映は、比率的に見ても圧倒的に男優の層が厚い。それに対して大映は女優の層が他社に比べて、圧倒的に厚いのだ。
その大映の看板女優の一人であったのが、若尾文子であったことには異論はあるまい。
ファーストシーン。その若尾文子が貧乏長屋で、鳥の飴細工に色を着けているところに、口入れ屋のやり手ババアである武智豊子が、いろいろしゃべりたてる。
「そりゃね。お妾さんって言ったてね。もう女将さんは亡くしちまって、後添えのようなものなんだよ。商売のほうもね。立派な呉服屋を営んでいて、そりゃもう評判なんだよ。どうだいお玉ちゃん。こんないい話、あたしゃないと思うんだがね」
「おばさん。ちょっと考えさせて」
お玉(若尾文子)の父親は、今では完全に消滅した職業だが、飴細工売りだった。鳥やウサギを形どった飴を、屋台を担ぎながら行商していたが、もう歳と言った感じで屋台を担いで長屋に帰ってくるのもやっとと言った感じだった。
お玉はとにかく、自分を妾にしたいと言う男、末造と料亭で会ってみることにした。
そこは学生たちが同窓会を開いてもいて、どんちゃん騒ぎをして、確かに「革命歌」のメロディーを歌っていたが、その酒宴の席に一人の男が入っていく。すると学生たちは、皆嫌な顔をした。
「田中さん。もう今月の期限切れているんですからね。ちゃんと返してくださいよ」
「わかっているよ」
その中年の男は高利貸しで、皆から嫌われている。
お玉は個室で件の男を待っていたが、ふと庭に目をやると学生、山本学がいた。だが明治時代の学生である。上は学帽を被り、下には袴を着け、さらに下駄を履いていると言うバンカラスタイル。
しかし山本学という俳優は、インテリの感じを出すのが非常にうまい。お玉は岡田(山本学)と視線が合ったが、そのまま障子を静かに閉めた。
と部屋に入ってきたのが、さっきの高利貸しの男だった。お玉は何も知らず、末造の妾になった。
上野、無縁坂にある家に、お玉は末造から家を与えられ、妾として暮らす生活が始まった。家にはお梅という女中がいて、お玉の身の回りのことは、食事から洗濯から何でもしてくれた。だが、お玉の生活費、小遣い、お梅を雇う金もすべて末造が出していることは言うまでもなかった。
「ダメだね。こんなもの。利息の足しにもなりやしない」
「そう言わないで。これでなんとかなりませんか」
懇願している女は反物を扱っているようであったが、赤ん坊をおぶっていて、生活に困窮しているようであった。
末造が無碍に金を貸すのを断ると、女はうなだれた様子で帰って行った。
「あなた。かわいそうじゃないですか」
「お前は高利貸しの女房にしては甘いんだな。そんなことでは商いはできんぞ」
末造の女房役は山岡久乃であった。
ここのところ若尾文子の映画を立て続けに見ている。『女は二度生まれる』、『砂糖菓子が壊れるとき』。そしてこの『雁』。この三本に山岡久乃は出演していて、必ず若尾文子に夫を取られると言う役柄なのだ。何か若尾文子に夫を取られる役=山岡久乃みたいなルールがあったのだろうか。
お玉はお梅に魚屋に買い物に行ってくれるように頼んだ。お梅は言われた通りに買い物籠を持って、近くの魚屋に行った。
「女将さん。いいところちょうだい」
「ふん。何言ってんだよ。こっちは高利貸しの妾になんか売る魚はないんだよ」
お梅は家に帰り、お玉に言われた通りのことを伝えた。この時代、高利貸しという存在は相当に世間から嫌われていたと見える。
末造は毎日のように無縁坂の家にやってくるのだった。そして、お梅に金を渡すと銭湯に行かせ、お玉と二人きりになり、彼女の身体を求めるのであった。
そんな末造の生活を山岡久乃が気づかないはずはなかった。
「あなた。なんでも無縁坂の辺りに妾を囲っているって言うじゃありませんか」
「何を藪から棒に言うんだ。俺はもう寝るよ」
末造はあくまでもシラを切り通すつもりだった。だが、やがて山岡久乃は無縁坂の家の周りをうろついたり、やつれた顔をして夜現れたりして、お玉を追い詰めていった。
無縁坂の家は庭を通じて、裁縫のおっしょさんの家と隣だった。自然とお玉はおっしょさんと親しくなっていった。
「きゃー!井口さんが通ったわよ!」
「えっ!どこ!どこ!」
おっしょさんは、家に女学生を集めて裁縫を教えていた。
「まあ。なんでしょうね。近頃の女学生は。あんなに騒いでも、どうにもなるものじゃないんですけどね。ああ。この方ね。反物の行商をしているんですよ」
そう紹介された女は、末造の店で金を貸してもらうのを断られた赤ん坊をおぶった女だった。女がふとお玉の家の縁側に目をやると、そこに見覚えのある反物があった。
それは末造がお玉に与えた物であったが、元々は女が借金のかたに末造に渡したものであった。その反物を見るなり女の態度が豹変した。
「ちきしょう!あどけない顔をして高利貸しの妾になんかなりやがって!こっちがどれだけ辛い思いで生きているのかわからないだろ!」
その場はおっしょさんが間に入ってなんとか治った。
「おとっつぁん。みんな嘘だったのよ。立派な呉服屋をやっているなんていうことも。奥さんだってきちんといるのよ」
「そう言ってもなあ。もう、おとっつぁんは飴屋に戻れないよ。あんまり、おとっつぁんをいじめないでくれよ」
おとっつぁんは盆栽をいじりながらそう言った。おとっつぁんが隠居暮らしをしているその家も、末造から当てがわれているものだった。
次第にお玉は孤立していった。
そんな時、あの料亭で見かけた岡田が毎日、無縁坂を通ることをお玉は気づいた。そして、いつしか岡田が家の前を通る時間を待ち焦がれるようになった。
ある日。お玉が軒先につるさげている小鳥の籠を見ようとしたら、そこに蛇がぶら下がっていることに気づき慌てふためいた。
「お、お梅!誰か!誰か人を呼んでーっ!」
蛇はその体を這わせ鳥籠の中に入ろうとしている。そこに通ったのが岡田だった。
「はやく!台と包丁を持ってきてください!」
お梅が言われたものを用意すると、岡田は台の上に乗り、包丁で蛇を切って殺した。
「君。これをどっかに捨ててくれたまえ」
「へい。そこのドブにでも捨てておきやしょう」
そう答えたのは、どこかの丁稚のようであった。
「あの。お上りになりません」
「いや。僕急いでいますんで。手を洗わせてもらえれば結構です」
旅館のようなところで岡田は、同期生の井川比佐志とだべっていた。
「あの様子だと、あの人はどこかのお妾さんって言うところかな」
「お前もお安くないな」
「そんなんじゃないんだよ。それよりも今度の試験のことが気になっているんだ。受かればドイツに留学できるからな」
「そうだな。それでお前も一気に立身出世の道が開けるというものだからな」
雨の降る日。岡田は無縁坂の家の近くの軒先で、雨宿りをしていた。それを見たお玉は番傘を差し出した。
「あの。これを」
「ありがとうございます。いずれまたお礼に伺いますので」
そう言うと岡田は歩き始めた。その後を追っていくお玉。岡田が足を止め、入っていった店は末造の店だった。
「おじさん。そこをもうちょっと頼むよ」
「だめですね。学生さん全員が出世するとは限らないんだ。出世払いならお断りですよ」
「洋行できるか、できないかの重要なところなんだよ」
岡田は末造の店から出ると、隣の古本屋に入り、持っていたドイツ書を売った。その店の中にお玉は気づかれないようにいて、岡田が出ていくとすぐに、そのドイツ書を買い直したのであった。
同期生たちが集まっているところに、岡田は駆け込んできた。
「やった!やったぞ!ドイツ行きが決まったんだ!」
「でかしたじゃないか!とうとうやったな!」
「今夜は派手に岡田の壮行会と行こうじゃないか!」
その日、末造は商用で夜まで無縁坂の家には来ないことがわかっていた。お玉はお梅に暇を出し、里帰りさせた。そして自分は髪を結い直し、手料理を用意して、また岡田が家の前を通るのを待っていた。
すっかり当たりが暗くなってきた頃、岡田の声が聞こえてきた。だが、岡田は一人ではなく、井川比佐志と一緒だった。
「いやあ。もうお前といつ会えるのかもわからんなあ」
「ああ。ドイツに行ってしまえば、いつ帰って来られるかわからんからな」「あそこにいる人が、いつか言っていた。お妾さんかい」
「そんなに大きく言うなよ。失礼じゃないか」
「まあ。今夜は富士楼で大いに飲もう」
その話を聞いてお玉は愕然とした。そして、その愕然とした心のまま、あの魚屋に行った。
「鯛の一番いいのを富士楼、いや無縁坂の高利貸しの妾の家に届けて」
「へい」
お玉が家に帰り呆然としていると、そこへ末造が入ってきた。そして用意してあった料理を見て言った。
「なんなんだ。これは。俺のために作ったんじゃないんだろう。髪なんか結い直して。さてはあの岡田という学生に惚れたか。だが妾と学生でしょせんはどうなる。それに岡田はヨーロッパ行きが決まったんだ」
そこへ、
「注文の品、お持ちしましたよ」
鯛を持って魚屋の女将が現れた。
「こんなものに払う金はない。とっとと持って帰れ」
「帰れってたってね!こっちは注文を受けちまったんですよ!なまもんなんでね!今更持って帰ることもできないんですよ!」
「いいから!それは置いて行って!」
女将が出ていくと、末造は鯛の乗った皿を蹴飛ばした。
「あたしだって!あたしだって!」
お玉はそう言って泣き崩れると、ドイツ書を手に取り、家を飛び出して行った。
そして、富士楼近くに来ると、そこには井川比佐志がいた。
「ああ。あなたでしたか。無縁坂の。いや。岡田から話はうかがっていたんです。でも、岡田はもう遠いところへ行ってしまいますよ」
「あのこれ。岡田さんに渡していただけないでしょうか」
「あ。これは岡田のドイツ書。いいですよ。必ず渡しますから」
お玉は一人、不忍池の近くにやってきた。そこに近づいてくる馬車。その中には笑顔の岡田とドイツ人が乗っていた。
そして不忍池から一羽の雁が飛び立つ。
無縁坂の家の前に立っているお玉。彼女はしばらくそこに立っていたが、またその玄関の中に入って行った。そこに被さる「完」の文字。
思わず「それでおしまいかい!」と突っ込みを入れたくなった。
冒頭にも書いたが、ストーリーがステレオタイプ過ぎて、何もドラマが発生していない気がするのだ。監督の池広一夫という人は聞いたことがない。だが文芸作品らしく格調高く撮っているつもりなのかもしれないが、お玉、女の恋心は昇華すれば情念にも通じるというような感じにはなっていない。
せっかくの一級の素材である若尾文子を活かしきれなかった。そんな作品だった。
それはまだ東京の空に雁(がん)が飛んでいる頃の話です」
大映映画『雁』は、このようなナレーションから始まる。
手っ取り早くこの作品のストーリーを言ってしまえば、妾の女が学生に恋心を抱くが、その学生はドイツに留学してしまうことになり、結局その恋心は儚く消えていく、というものである。
原作は森鴎外。もし森鴎外の原作を、この映画が忠実に描いているとなると、その原作もステレオタイプな物語の域を脱していないと感じてしまった。
なぜこうも大映の映画というのは、妾や愛人を描いたものが多いのだろうか。その中で展開される愛憎劇というものは、本当に大映が得意とする分野だ。
その問いに答えを導き出すとするなら、大映黄金期の時代は特に文芸映画を中心に、婦人映画、今風に言えば女性をターゲットにした映画が量産されていたのではないか。
例えば時代劇や任侠映画と言った男性向けの映画が多かった東映は、比率的に見ても圧倒的に男優の層が厚い。それに対して大映は女優の層が他社に比べて、圧倒的に厚いのだ。
その大映の看板女優の一人であったのが、若尾文子であったことには異論はあるまい。
ファーストシーン。その若尾文子が貧乏長屋で、鳥の飴細工に色を着けているところに、口入れ屋のやり手ババアである武智豊子が、いろいろしゃべりたてる。
「そりゃね。お妾さんって言ったてね。もう女将さんは亡くしちまって、後添えのようなものなんだよ。商売のほうもね。立派な呉服屋を営んでいて、そりゃもう評判なんだよ。どうだいお玉ちゃん。こんないい話、あたしゃないと思うんだがね」
「おばさん。ちょっと考えさせて」
お玉(若尾文子)の父親は、今では完全に消滅した職業だが、飴細工売りだった。鳥やウサギを形どった飴を、屋台を担ぎながら行商していたが、もう歳と言った感じで屋台を担いで長屋に帰ってくるのもやっとと言った感じだった。
お玉はとにかく、自分を妾にしたいと言う男、末造と料亭で会ってみることにした。
そこは学生たちが同窓会を開いてもいて、どんちゃん騒ぎをして、確かに「革命歌」のメロディーを歌っていたが、その酒宴の席に一人の男が入っていく。すると学生たちは、皆嫌な顔をした。
「田中さん。もう今月の期限切れているんですからね。ちゃんと返してくださいよ」
「わかっているよ」
その中年の男は高利貸しで、皆から嫌われている。
お玉は個室で件の男を待っていたが、ふと庭に目をやると学生、山本学がいた。だが明治時代の学生である。上は学帽を被り、下には袴を着け、さらに下駄を履いていると言うバンカラスタイル。
しかし山本学という俳優は、インテリの感じを出すのが非常にうまい。お玉は岡田(山本学)と視線が合ったが、そのまま障子を静かに閉めた。
と部屋に入ってきたのが、さっきの高利貸しの男だった。お玉は何も知らず、末造の妾になった。
上野、無縁坂にある家に、お玉は末造から家を与えられ、妾として暮らす生活が始まった。家にはお梅という女中がいて、お玉の身の回りのことは、食事から洗濯から何でもしてくれた。だが、お玉の生活費、小遣い、お梅を雇う金もすべて末造が出していることは言うまでもなかった。
「ダメだね。こんなもの。利息の足しにもなりやしない」
「そう言わないで。これでなんとかなりませんか」
懇願している女は反物を扱っているようであったが、赤ん坊をおぶっていて、生活に困窮しているようであった。
末造が無碍に金を貸すのを断ると、女はうなだれた様子で帰って行った。
「あなた。かわいそうじゃないですか」
「お前は高利貸しの女房にしては甘いんだな。そんなことでは商いはできんぞ」
末造の女房役は山岡久乃であった。
ここのところ若尾文子の映画を立て続けに見ている。『女は二度生まれる』、『砂糖菓子が壊れるとき』。そしてこの『雁』。この三本に山岡久乃は出演していて、必ず若尾文子に夫を取られると言う役柄なのだ。何か若尾文子に夫を取られる役=山岡久乃みたいなルールがあったのだろうか。
お玉はお梅に魚屋に買い物に行ってくれるように頼んだ。お梅は言われた通りに買い物籠を持って、近くの魚屋に行った。
「女将さん。いいところちょうだい」
「ふん。何言ってんだよ。こっちは高利貸しの妾になんか売る魚はないんだよ」
お梅は家に帰り、お玉に言われた通りのことを伝えた。この時代、高利貸しという存在は相当に世間から嫌われていたと見える。
末造は毎日のように無縁坂の家にやってくるのだった。そして、お梅に金を渡すと銭湯に行かせ、お玉と二人きりになり、彼女の身体を求めるのであった。
そんな末造の生活を山岡久乃が気づかないはずはなかった。
「あなた。なんでも無縁坂の辺りに妾を囲っているって言うじゃありませんか」
「何を藪から棒に言うんだ。俺はもう寝るよ」
末造はあくまでもシラを切り通すつもりだった。だが、やがて山岡久乃は無縁坂の家の周りをうろついたり、やつれた顔をして夜現れたりして、お玉を追い詰めていった。
無縁坂の家は庭を通じて、裁縫のおっしょさんの家と隣だった。自然とお玉はおっしょさんと親しくなっていった。
「きゃー!井口さんが通ったわよ!」
「えっ!どこ!どこ!」
おっしょさんは、家に女学生を集めて裁縫を教えていた。
「まあ。なんでしょうね。近頃の女学生は。あんなに騒いでも、どうにもなるものじゃないんですけどね。ああ。この方ね。反物の行商をしているんですよ」
そう紹介された女は、末造の店で金を貸してもらうのを断られた赤ん坊をおぶった女だった。女がふとお玉の家の縁側に目をやると、そこに見覚えのある反物があった。
それは末造がお玉に与えた物であったが、元々は女が借金のかたに末造に渡したものであった。その反物を見るなり女の態度が豹変した。
「ちきしょう!あどけない顔をして高利貸しの妾になんかなりやがって!こっちがどれだけ辛い思いで生きているのかわからないだろ!」
その場はおっしょさんが間に入ってなんとか治った。
「おとっつぁん。みんな嘘だったのよ。立派な呉服屋をやっているなんていうことも。奥さんだってきちんといるのよ」
「そう言ってもなあ。もう、おとっつぁんは飴屋に戻れないよ。あんまり、おとっつぁんをいじめないでくれよ」
おとっつぁんは盆栽をいじりながらそう言った。おとっつぁんが隠居暮らしをしているその家も、末造から当てがわれているものだった。
次第にお玉は孤立していった。
そんな時、あの料亭で見かけた岡田が毎日、無縁坂を通ることをお玉は気づいた。そして、いつしか岡田が家の前を通る時間を待ち焦がれるようになった。
ある日。お玉が軒先につるさげている小鳥の籠を見ようとしたら、そこに蛇がぶら下がっていることに気づき慌てふためいた。
「お、お梅!誰か!誰か人を呼んでーっ!」
蛇はその体を這わせ鳥籠の中に入ろうとしている。そこに通ったのが岡田だった。
「はやく!台と包丁を持ってきてください!」
お梅が言われたものを用意すると、岡田は台の上に乗り、包丁で蛇を切って殺した。
「君。これをどっかに捨ててくれたまえ」
「へい。そこのドブにでも捨てておきやしょう」
そう答えたのは、どこかの丁稚のようであった。
「あの。お上りになりません」
「いや。僕急いでいますんで。手を洗わせてもらえれば結構です」
旅館のようなところで岡田は、同期生の井川比佐志とだべっていた。
「あの様子だと、あの人はどこかのお妾さんって言うところかな」
「お前もお安くないな」
「そんなんじゃないんだよ。それよりも今度の試験のことが気になっているんだ。受かればドイツに留学できるからな」
「そうだな。それでお前も一気に立身出世の道が開けるというものだからな」
雨の降る日。岡田は無縁坂の家の近くの軒先で、雨宿りをしていた。それを見たお玉は番傘を差し出した。
「あの。これを」
「ありがとうございます。いずれまたお礼に伺いますので」
そう言うと岡田は歩き始めた。その後を追っていくお玉。岡田が足を止め、入っていった店は末造の店だった。
「おじさん。そこをもうちょっと頼むよ」
「だめですね。学生さん全員が出世するとは限らないんだ。出世払いならお断りですよ」
「洋行できるか、できないかの重要なところなんだよ」
岡田は末造の店から出ると、隣の古本屋に入り、持っていたドイツ書を売った。その店の中にお玉は気づかれないようにいて、岡田が出ていくとすぐに、そのドイツ書を買い直したのであった。
同期生たちが集まっているところに、岡田は駆け込んできた。
「やった!やったぞ!ドイツ行きが決まったんだ!」
「でかしたじゃないか!とうとうやったな!」
「今夜は派手に岡田の壮行会と行こうじゃないか!」
その日、末造は商用で夜まで無縁坂の家には来ないことがわかっていた。お玉はお梅に暇を出し、里帰りさせた。そして自分は髪を結い直し、手料理を用意して、また岡田が家の前を通るのを待っていた。
すっかり当たりが暗くなってきた頃、岡田の声が聞こえてきた。だが、岡田は一人ではなく、井川比佐志と一緒だった。
「いやあ。もうお前といつ会えるのかもわからんなあ」
「ああ。ドイツに行ってしまえば、いつ帰って来られるかわからんからな」「あそこにいる人が、いつか言っていた。お妾さんかい」
「そんなに大きく言うなよ。失礼じゃないか」
「まあ。今夜は富士楼で大いに飲もう」
その話を聞いてお玉は愕然とした。そして、その愕然とした心のまま、あの魚屋に行った。
「鯛の一番いいのを富士楼、いや無縁坂の高利貸しの妾の家に届けて」
「へい」
お玉が家に帰り呆然としていると、そこへ末造が入ってきた。そして用意してあった料理を見て言った。
「なんなんだ。これは。俺のために作ったんじゃないんだろう。髪なんか結い直して。さてはあの岡田という学生に惚れたか。だが妾と学生でしょせんはどうなる。それに岡田はヨーロッパ行きが決まったんだ」
そこへ、
「注文の品、お持ちしましたよ」
鯛を持って魚屋の女将が現れた。
「こんなものに払う金はない。とっとと持って帰れ」
「帰れってたってね!こっちは注文を受けちまったんですよ!なまもんなんでね!今更持って帰ることもできないんですよ!」
「いいから!それは置いて行って!」
女将が出ていくと、末造は鯛の乗った皿を蹴飛ばした。
「あたしだって!あたしだって!」
お玉はそう言って泣き崩れると、ドイツ書を手に取り、家を飛び出して行った。
そして、富士楼近くに来ると、そこには井川比佐志がいた。
「ああ。あなたでしたか。無縁坂の。いや。岡田から話はうかがっていたんです。でも、岡田はもう遠いところへ行ってしまいますよ」
「あのこれ。岡田さんに渡していただけないでしょうか」
「あ。これは岡田のドイツ書。いいですよ。必ず渡しますから」
お玉は一人、不忍池の近くにやってきた。そこに近づいてくる馬車。その中には笑顔の岡田とドイツ人が乗っていた。
そして不忍池から一羽の雁が飛び立つ。
無縁坂の家の前に立っているお玉。彼女はしばらくそこに立っていたが、またその玄関の中に入って行った。そこに被さる「完」の文字。
思わず「それでおしまいかい!」と突っ込みを入れたくなった。
冒頭にも書いたが、ストーリーがステレオタイプ過ぎて、何もドラマが発生していない気がするのだ。監督の池広一夫という人は聞いたことがない。だが文芸作品らしく格調高く撮っているつもりなのかもしれないが、お玉、女の恋心は昇華すれば情念にも通じるというような感じにはなっていない。
せっかくの一級の素材である若尾文子を活かしきれなかった。そんな作品だった。
大映映画『雁』は、このようなナレーションから始まる。
手っ取り早くこの作品のストーリーを言ってしまえば、妾の女が学生に恋心を抱くが、その学生はドイツに留学してしまうことになり、結局その恋心は儚く消えていく、というものである。
原作は森鴎外。もし森鴎外の原作を、この映画が忠実に描いているとなると、その原作もステレオタイプな物語の域を脱していないと感じてしまった。
なぜこうも大映の映画というのは、妾や愛人を描いたものが多いのだろうか。その中で展開される愛憎劇というものは、本当に大映が得意とする分野だ。
その問いに答えを導き出すとするなら、大映黄金期の時代は特に文芸映画を中心に、婦人映画、今風に言えば女性をターゲットにした映画が量産されていたのではないか。
例えば時代劇や任侠映画と言った男性向けの映画が多かった東映は、比率的に見ても圧倒的に男優の層が厚い。それに対して大映は女優の層が他社に比べて、圧倒的に厚いのだ。
その大映の看板女優の一人であったのが、若尾文子であったことには異論はあるまい。
ファーストシーン。その若尾文子が貧乏長屋で、鳥の飴細工に色を着けているところに、口入れ屋のやり手ババアである武智豊子が、いろいろしゃべりたてる。
「そりゃね。お妾さんって言ったてね。もう女将さんは亡くしちまって、後添えのようなものなんだよ。商売のほうもね。立派な呉服屋を営んでいて、そりゃもう評判なんだよ。どうだいお玉ちゃん。こんないい話、あたしゃないと思うんだがね」
「おばさん。ちょっと考えさせて」
お玉(若尾文子)の父親は、今では完全に消滅した職業だが、飴細工売りだった。鳥やウサギを形どった飴を、屋台を担ぎながら行商していたが、もう歳と言った感じで屋台を担いで長屋に帰ってくるのもやっとと言った感じだった。
お玉はとにかく、自分を妾にしたいと言う男、末造と料亭で会ってみることにした。
そこは学生たちが同窓会を開いてもいて、どんちゃん騒ぎをして、確かに「革命歌」のメロディーを歌っていたが、その酒宴の席に一人の男が入っていく。すると学生たちは、皆嫌な顔をした。
「田中さん。もう今月の期限切れているんですからね。ちゃんと返してくださいよ」
「わかっているよ」
その中年の男は高利貸しで、皆から嫌われている。
お玉は個室で件の男を待っていたが、ふと庭に目をやると学生、山本学がいた。だが明治時代の学生である。上は学帽を被り、下には袴を着け、さらに下駄を履いていると言うバンカラスタイル。
しかし山本学という俳優は、インテリの感じを出すのが非常にうまい。お玉は岡田(山本学)と視線が合ったが、そのまま障子を静かに閉めた。
と部屋に入ってきたのが、さっきの高利貸しの男だった。お玉は何も知らず、末造の妾になった。
上野、無縁坂にある家に、お玉は末造から家を与えられ、妾として暮らす生活が始まった。家にはお梅という女中がいて、お玉の身の回りのことは、食事から洗濯から何でもしてくれた。だが、お玉の生活費、小遣い、お梅を雇う金もすべて末造が出していることは言うまでもなかった。
「ダメだね。こんなもの。利息の足しにもなりやしない」
「そう言わないで。これでなんとかなりませんか」
懇願している女は反物を扱っているようであったが、赤ん坊をおぶっていて、生活に困窮しているようであった。
末造が無碍に金を貸すのを断ると、女はうなだれた様子で帰って行った。
「あなた。かわいそうじゃないですか」
「お前は高利貸しの女房にしては甘いんだな。そんなことでは商いはできんぞ」
末造の女房役は山岡久乃であった。
ここのところ若尾文子の映画を立て続けに見ている。『女は二度生まれる』、『砂糖菓子が壊れるとき』。そしてこの『雁』。この三本に山岡久乃は出演していて、必ず若尾文子に夫を取られると言う役柄なのだ。何か若尾文子に夫を取られる役=山岡久乃みたいなルールがあったのだろうか。
お玉はお梅に魚屋に買い物に行ってくれるように頼んだ。お梅は言われた通りに買い物籠を持って、近くの魚屋に行った。
「女将さん。いいところちょうだい」
「ふん。何言ってんだよ。こっちは高利貸しの妾になんか売る魚はないんだよ」
お梅は家に帰り、お玉に言われた通りのことを伝えた。この時代、高利貸しという存在は相当に世間から嫌われていたと見える。
末造は毎日のように無縁坂の家にやってくるのだった。そして、お梅に金を渡すと銭湯に行かせ、お玉と二人きりになり、彼女の身体を求めるのであった。
そんな末造の生活を山岡久乃が気づかないはずはなかった。
「あなた。なんでも無縁坂の辺りに妾を囲っているって言うじゃありませんか」
「何を藪から棒に言うんだ。俺はもう寝るよ」
末造はあくまでもシラを切り通すつもりだった。だが、やがて山岡久乃は無縁坂の家の周りをうろついたり、やつれた顔をして夜現れたりして、お玉を追い詰めていった。
無縁坂の家は庭を通じて、裁縫のおっしょさんの家と隣だった。自然とお玉はおっしょさんと親しくなっていった。
「きゃー!井口さんが通ったわよ!」
「えっ!どこ!どこ!」
おっしょさんは、家に女学生を集めて裁縫を教えていた。
「まあ。なんでしょうね。近頃の女学生は。あんなに騒いでも、どうにもなるものじゃないんですけどね。ああ。この方ね。反物の行商をしているんですよ」
そう紹介された女は、末造の店で金を貸してもらうのを断られた赤ん坊をおぶった女だった。女がふとお玉の家の縁側に目をやると、そこに見覚えのある反物があった。
それは末造がお玉に与えた物であったが、元々は女が借金のかたに末造に渡したものであった。その反物を見るなり女の態度が豹変した。
「ちきしょう!あどけない顔をして高利貸しの妾になんかなりやがって!こっちがどれだけ辛い思いで生きているのかわからないだろ!」
その場はおっしょさんが間に入ってなんとか治った。
「おとっつぁん。みんな嘘だったのよ。立派な呉服屋をやっているなんていうことも。奥さんだってきちんといるのよ」
「そう言ってもなあ。もう、おとっつぁんは飴屋に戻れないよ。あんまり、おとっつぁんをいじめないでくれよ」
おとっつぁんは盆栽をいじりながらそう言った。おとっつぁんが隠居暮らしをしているその家も、末造から当てがわれているものだった。
次第にお玉は孤立していった。
そんな時、あの料亭で見かけた岡田が毎日、無縁坂を通ることをお玉は気づいた。そして、いつしか岡田が家の前を通る時間を待ち焦がれるようになった。
ある日。お玉が軒先につるさげている小鳥の籠を見ようとしたら、そこに蛇がぶら下がっていることに気づき慌てふためいた。
「お、お梅!誰か!誰か人を呼んでーっ!」
蛇はその体を這わせ鳥籠の中に入ろうとしている。そこに通ったのが岡田だった。
「はやく!台と包丁を持ってきてください!」
お梅が言われたものを用意すると、岡田は台の上に乗り、包丁で蛇を切って殺した。
「君。これをどっかに捨ててくれたまえ」
「へい。そこのドブにでも捨てておきやしょう」
そう答えたのは、どこかの丁稚のようであった。
「あの。お上りになりません」
「いや。僕急いでいますんで。手を洗わせてもらえれば結構です」
旅館のようなところで岡田は、同期生の井川比佐志とだべっていた。
「あの様子だと、あの人はどこかのお妾さんって言うところかな」
「お前もお安くないな」
「そんなんじゃないんだよ。それよりも今度の試験のことが気になっているんだ。受かればドイツに留学できるからな」
「そうだな。それでお前も一気に立身出世の道が開けるというものだからな」
雨の降る日。岡田は無縁坂の家の近くの軒先で、雨宿りをしていた。それを見たお玉は番傘を差し出した。
「あの。これを」
「ありがとうございます。いずれまたお礼に伺いますので」
そう言うと岡田は歩き始めた。その後を追っていくお玉。岡田が足を止め、入っていった店は末造の店だった。
「おじさん。そこをもうちょっと頼むよ」
「だめですね。学生さん全員が出世するとは限らないんだ。出世払いならお断りですよ」
「洋行できるか、できないかの重要なところなんだよ」
岡田は末造の店から出ると、隣の古本屋に入り、持っていたドイツ書を売った。その店の中にお玉は気づかれないようにいて、岡田が出ていくとすぐに、そのドイツ書を買い直したのであった。
同期生たちが集まっているところに、岡田は駆け込んできた。
「やった!やったぞ!ドイツ行きが決まったんだ!」
「でかしたじゃないか!とうとうやったな!」
「今夜は派手に岡田の壮行会と行こうじゃないか!」
その日、末造は商用で夜まで無縁坂の家には来ないことがわかっていた。お玉はお梅に暇を出し、里帰りさせた。そして自分は髪を結い直し、手料理を用意して、また岡田が家の前を通るのを待っていた。
すっかり当たりが暗くなってきた頃、岡田の声が聞こえてきた。だが、岡田は一人ではなく、井川比佐志と一緒だった。
「いやあ。もうお前といつ会えるのかもわからんなあ」
「ああ。ドイツに行ってしまえば、いつ帰って来られるかわからんからな」「あそこにいる人が、いつか言っていた。お妾さんかい」
「そんなに大きく言うなよ。失礼じゃないか」
「まあ。今夜は富士楼で大いに飲もう」
その話を聞いてお玉は愕然とした。そして、その愕然とした心のまま、あの魚屋に行った。
「鯛の一番いいのを富士楼、いや無縁坂の高利貸しの妾の家に届けて」
「へい」
お玉が家に帰り呆然としていると、そこへ末造が入ってきた。そして用意してあった料理を見て言った。
「なんなんだ。これは。俺のために作ったんじゃないんだろう。髪なんか結い直して。さてはあの岡田という学生に惚れたか。だが妾と学生でしょせんはどうなる。それに岡田はヨーロッパ行きが決まったんだ」
そこへ、
「注文の品、お持ちしましたよ」
鯛を持って魚屋の女将が現れた。
「こんなものに払う金はない。とっとと持って帰れ」
「帰れってたってね!こっちは注文を受けちまったんですよ!なまもんなんでね!今更持って帰ることもできないんですよ!」
「いいから!それは置いて行って!」
女将が出ていくと、末造は鯛の乗った皿を蹴飛ばした。
「あたしだって!あたしだって!」
お玉はそう言って泣き崩れると、ドイツ書を手に取り、家を飛び出して行った。
そして、富士楼近くに来ると、そこには井川比佐志がいた。
「ああ。あなたでしたか。無縁坂の。いや。岡田から話はうかがっていたんです。でも、岡田はもう遠いところへ行ってしまいますよ」
「あのこれ。岡田さんに渡していただけないでしょうか」
「あ。これは岡田のドイツ書。いいですよ。必ず渡しますから」
お玉は一人、不忍池の近くにやってきた。そこに近づいてくる馬車。その中には笑顔の岡田とドイツ人が乗っていた。
そして不忍池から一羽の雁が飛び立つ。
無縁坂の家の前に立っているお玉。彼女はしばらくそこに立っていたが、またその玄関の中に入って行った。そこに被さる「完」の文字。
思わず「それでおしまいかい!」と突っ込みを入れたくなった。
冒頭にも書いたが、ストーリーがステレオタイプ過ぎて、何もドラマが発生していない気がするのだ。監督の池広一夫という人は聞いたことがない。だが文芸作品らしく格調高く撮っているつもりなのかもしれないが、お玉、女の恋心は昇華すれば情念にも通じるというような感じにはなっていない。
せっかくの一級の素材である若尾文子を活かしきれなかった。そんな作品だった。
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