神道界において最も権威ある神社とはどこだろうか?
やはり伊勢神宮であろうか?それとも出雲大社であろうか?
しかし、そのふたつとも違うのである。現在の京都大学の近くにある吉田山にひっそりと鎮座している吉田神社。こここそがおよそ室町期から江戸時代まで、神道界の王道を歩いてきた吉田神道を主唱してきた神社なのである。
吉田神道については以下の点については知っていた。
室町時代、吉田家の頭首・吉田兼倶は吉田神社内に大元宮という八角形の不思議な祭儀所を作り、そこに天照をはじめ、日本の八百万の神すべてを祀った。
幕末に誕生した天理教や金光教、黒住教などの教派神道は、看板を掲げる時に吉田家からお墨付きをもらっていた。
吉田神道には神道護摩なる行法が伝わっていた。
だがなにゆえ、吉田家が神道界において権威を有することができたのかについては謎のままだった。
そんな自分の問いに、井上智勝著『吉田神道の四百年』(講談社選書メチエ)は十分過ぎるくらい答えてくれた。
そして、ともすればマニアックになりすぎる感じのあるこのテーマを歴史学のなかで経済性や、当時の国際性などを読み解くことによって誰でもが合点のゆく論を導き出している点もいい。
すべては応仁の乱から始まったのか?
政治的、社会的混乱は当然宗教界にも少なからず影響をもたらした。当時、伊勢の内宮と外宮は主導権を巡って争乱状態に陥った。
そんな時、〝飛神明〟という現象が起こった。伊勢の神が全国各地へ飛散してしまったのだ。
吉田兼倶が大元宮に天照を祀る下地はここにあった。しかも朝廷は吉田家にそれまで朝廷内にあった斎場所を委託した。それは朝廷権威、あるいは朝廷機構の明らかな低下であった。
吉田兼倶というと怪しげな山師という印象があるかもしれないが、吉田家はちゃんと朝廷から神祇管領長上という役職をもらった公家であった。神祇管領長上を実務方トップだとすると、事務方トップは神祇伯・白川家であったが、やり手である実務方・吉田家には押されっぱなしであった。
吉田兼倶の功績はそれだけではなかった。
彼は唯一神道というものを提唱した。その背後には「唯一」でないものがあった。古代において百済から仏教が公伝した時、物部氏と蘇我氏の間で崇仏論争があったというが、古代人が黄金に輝く仏像、そして巨大で精緻な寺院建築を見た時、在来の神がそのなかに包摂されてゆくというのは自然な流れではなかっただろうか?
さらに平安、鎌倉期になると密教の理論によって整備されていった両部神道や山王一実神道が確立されてくる。
だが吉田兼倶は、神は神であり、仏に服属するものではないと主張した。しかし吉田兼倶が声高にそう主張してみても、密教や陰陽道、修験道のように行法(テクニック)で超自然的な相手を操ることは神道にはできない。だが吉田兼倶はその神道行法を編み出してしまったのだ。それが神道護摩であるのだが、護摩の名の通り、それは多分に密教からの借用であった。
本書はあくまで歴史学書なので、この神道護摩についての言及がないのは残念だが、しかしその他にも神を操る術を吉田家は編み出していた。
時代が中世、戦国、安土桃山、近世へ下ってゆくと神仏の影響力は弱まって行った。しかし完全に神仏の力をぬぐい去ることはできなかった。
例えばそれらの時代を開墾の時代とも考えられるが、そこには神罰が下るかもしれない。そんな時代のニーズに合わせて、吉田家は鎮礼という神様に鎮まってもらう為のお札を全国に配った。
さらに宗源宣旨という神様の身分を保障する証書も配った。神様の身分というと変な表現だが、江戸時代に入り、商品作物の生産による経済流通が始まると、当然農民は特産物を作りたいと思うようになる。
しかし当時、村の氏神などは御嫌物と言って、特定の生産物、麦なら麦、蕎麦なら蕎麦を嫌うという傾向にあった。これは村の神職などにはどうしようもならないものであった。
そこで吉田家はそういった村の鎮守社に、宗源宣旨を送った。これはうやうやしく桐の箱に入り、錦に包まれたものだった。
そこには神に対して位階(例えば正一位など)を差し上げる替わりに、どうか御嫌物は解いて下さいといった旨のことが書いてあった。
吉田家が神に位を授けるのだから、本質的には神よりも吉田家のほうが偉いと言うことになる。
さらには全国の神職に資格を与える神道裁許状などによって、吉田家は神道界の王道を歩いて行った。当然そこには吉田兼倶が創出した装置としての大元宮が大きな力として存在していた。
変わって死後の豊臣秀吉を豊国大明神として祀ったのも吉田家だった。吉田家は豊国神社の神主として萩原家という分家を作り、その任に当たらせた。
が、豊臣政権はあっという間に瓦解した。しかし家康亡き後、当然自分たちが家康を神として祀ることができると思っていた吉田家に突然強敵が現れた。天台僧・天海だ。勝負は天海に喫し、家康は大明神ではなく、東照大権現として祀られた。
この事件に関しては、吉田式によって大明神として祀られた豊臣秀吉とその子孫が結局は滅亡したので、不吉ではないかと、権現号になったとよく言われるが、著者はその裏に朝廷権威を超える神性を家康並びに天海は獲得したいとの思いがあったのではと指摘している。それに権現なら仏の世界でも、神の世界でも通用する。
こういった為政者が超越した力の獲得を目指す、というところに自分は日本史のなかにおけるある心性を感じてしまう。
例えば武士が出家するということがある。例えば足利義満にしても、あるいは戦国期の上杉謙信。彼は自身のことを毘沙門天だと思っていた。一方、武田信玄は不動明王だと思っていたらしい。
出家するということは、世俗を捨てるのではなく、世俗を超越ことにあるのではないか?
比叡山を焼き討ちし、本願寺と戦い続けた織田信長でさえ、自身を仏教と敵対する第六天の魔王と思っていたようだ。
さらに出家ということで言えば天皇でさえも、院政期の法王のように明王信仰に明け暮れていた者もいる。そして後醍醐のように、ついには自身が密教の力を獲得してゆくという者も現れる。
だがこのようなことも、逆に言えば天皇でさえも世俗の権威性、あるいは神道的言説だけでは、おのれの正統性を保証できなくなってしまったということの現れではないかと、本書を読みながら思った。
それにしても天海恐るべしである。天下の〝神使い〟と呼ばれた吉田家を退けたのである。そしてこの頃、吉田家は家の内紛も手伝って求心力が低下してゆくかに見えた。
しかし救いの手は向こうからやってきた。
徳川家が長期安定政権を確立する為には、それ以前の秀吉のような無茶をするわけにはいかず、対外協調路線を取る以外になかった。
これも本書によって知ったのだが、そこに東アジアの国際スタンダードとしてあったのが儒教だった。
加えて中国が明から清王朝に変わると、朝鮮などは〝我こそは儒教の正当な継承者なり〟と声を上げた。いかに中国の王朝といえど、清は中華思想から見れば、野蛮な満州族が作り上げた国だからだ。清もなんとか王朝を正統化するために、儒教を取れ入れたに違いない。そういった国際潮流のなかで、日本だけが無縁でいられた訳がない。
下々の者はともかく為政者は、積極的にこれを学ばなくてはいけない。だが日本の場合には片一方で、自国優越主義の神国思想があった。吉田家は〝神道の教え〟として、この両方を満たした。
それは多分に儒教と神道の折衷であったが、保科正之、徳川光圀、徳川直義など初期徳川諸公は、これに傾倒した。
特に徳川光圀は、これにより水戸藩内において、神仏分離を行い加えて神社の統廃合も行った。それは明治期のように全国的に吹き荒れた廃仏毀釈や神仏分離ではなかったが、明らかにその先行形であった。
さらに古代からの由緒を持つとされる式内社が復興されたのもこの時期であった。
どうして水戸藩において尊王思想が醸成されてきたのか不思議であったのだが、その胎動には吉田家が一枚噛んでいた。
幕府の法整備の下に再び吉田家は神道界の王道を歩み出した。
だが世の安定化とは裏腹に、神道界では下克上が始まった。それまで神職というのは、地方の有力神社に奉仕する家が力を持っていて、村の神職などは、その下にいるという図式になっていた。
だが京都の吉田家に頼めば、位階を授けてくれるという。いつまでもうだつの上がらないことをやっていても仕方がない。
ここでいう位階とは神職に対するものである。吉田家に取り次ぎ、金さえ払えば、有力神社の神主より偉くなれる、ハクがつくのである。これまで不満を抱えてきた神職たちは、なだれを打って京都、吉田山を目指した。
だがそこには神職たちの切実な願いもあった。神職と言ってもすべての神社に神職がいる訳ではなかった。
むしろ多くの場合、その管理にあたっていたのは別当や社僧と呼ばれる坊さんだったり、山伏であったり、村の構成員からなる宮座の場合が多かった。
それに神職の場合、僧侶のように本山末寺制もなかったので、その社会的位置は不安定なものだった。なので多くの神職が吉田家を〝御本所〟として頼った。
王道を歩き出した吉田家だが、現在の独占企業に見られるように、富の再分配ということはしなかった。
神に位を授けるということまでは許せても、生きた人間に位を授けるということが他の公家の反感を買ったのか?そういった思惑と、下克上を喰らった神職たちの怨みが合致したのか?吉田家はたびたび批判の矢面に立たされることになる。
それに拍車をかけたのが江戸後期から始まる考証学や国学の系譜であった。彼らからしてみれば、吉田家のやっていることは詐欺同然のものであり、許されざるものであった。
そうした批判に対し、吉田家が反証するてだてもなく、18世紀頃には吉田家の影響力は低下を見せ始めた。
ついでに書けば、吉田家批判のなかから本居宣長が出てきたとも考えられる。
その代わりに脚光を浴びたのが神祇伯白川家である。まごうことなき神道界のサラブレット。だが白川家とて、ポッと王道を歩けた訳ではない。考証学者や神道家、国学者らが吉田家を攻撃したとて、それは専門用語の飛び交う、下々の者からしたらチンプンカンプンな話である。
それに吉田家の虚構が崩れたとしても、彼らには積年の実績があり、神に関することならよろず相談に乗ってきたのである。
白川家とて、そこにやすやすと参入してゆくことはできない。
本書を読んでいて面白いと思った箇所は、いくつもあるのだが、ここも一つであった。
市場経済の流通は農村も巻き込んだ。当然、その波に乗れなかった者もいて、彼らは都市に流入して下層民を形成した。
そういった者の中には、門付け芸人などもいたが、下層宗教者としての願人坊主や陰陽師が零落した姿としての辻占などもいた。
実はそのなかに家々を回り、祝詞を唱え金をもらう神道者と呼ばれる者がいたのだ。
もちろん彼らは神道の勉強などしていない。言を嫌わずに言えば、乞食に毛のはえたようなような人たちだ。
だが白川家は彼らを勧誘した。うちで神道の勉強をしませんか、と。しかも身分も保障してあげますよ、と。その日暮らしの神道者にとっては救いの手だったが、白川家もボランティアな訳がない。
それによって教線を拡大しようとしたのだ。だがこれは吉田家以上に違法ぎりぎりのものだった。
吉田家の場合、位階を授けるのはあくまで神職であったが、白川家は神道者のような、どこの馬の骨か分らない者に位階を授ける可能性があった。
そんなことが可能になれば、徳川政権の基盤政策である身分制にほころびが入る。だが、そこまでしなければ白川家は吉田家に対抗できなかった。いや。白川家のやりかたは、吉田家が作った網の目を抜ける抜け穴商法だったと言えるだろう。
だがこうした事例をきっかけにして、意外にも下々の者がお公家さんと繋がる機会があったのだ。
そして迎えた明治。明治期以降、吉田家、そして吉田神道がどうなったか本書は記していないが、国家神道の成立過程で完全に力をなくしたことは想像がつく。
だがその国家神道。あるいは国民としての日本人の創出。それとても吉田神道があったれば、容易に形成できたのではないかと著者は記す。
著者の言葉を借りれば、〝神社〟という端末は全国津々浦々に埋め込まれていたのだと。そしてあとは、その電源を入れればよかったのだと。
ページをめくるたびに、著者の軽快な文章力に乗せられて、吉田家の運命やいかに!?と思わせるスペクタクルの観もあり、それでいて神を巡る日本史の一断面という好奇心をそそられる良書であった。