仏教の世界認識論に唯識というものがある。
世界を構成しているのは、ただ人間の意識だけであるとするものである。
この唯識論を知ったのは確か、もう20年くらい前、ダライ・ラマが来日した際の法話で、
「目の前にコップがあるからコップがあるのか。コップがあると認識している自分がいるからコップがあるのか」
というようなことを話したのがきっかけだったと思う。その時は、仏教にはいやに難解で哲学的な教えがあるんだなあ、というようなことしか思わなかったが、以後、頭に片隅のどこかに、この唯識論があったと思う。
そして三年ぐらい前から真言宗の寺で、阿字観瞑想を始めた。真言宗の考え方は、宇宙(生命)の根源仏・大日如来と一体化することによって即身成仏を果たすことである。
大日如来と一体になった状態を、入我我入とも言う。
つまり私が大日如来に入ってゆき、大日如来が私に入ってくることを指す。また真言宗の宗祖である空海はこのようにも言う。
「それ仏法は遠くにあらず すなわち心中にして近し」
仏法、あるいは仏は遠くにいるのではなく、すでに自分の心の中にいるものだ、と。
だが、これを観念的に捉えることは容易くても、実感、現実感として感じるのはなかなかに難しい。であるから、阿字観などの実習を通して、少しでもその〝実感〟に近づこうとするのだ。
かく言う自分も阿字観を始めたばかりの頃は、なにがなんだか分らないうちに終わってしまったり、その時間中ひたすら雑念が涌いてきたり、いらいらするだけであった。しかし、いつの頃からか一時間なら一時間すべてではないが、少しずつ入我我入の感じに近づき始めた。
そしてそれを自分なりに考察してみると、主体と客体の関係性の変容ではないかと思えてきた。主体(自分)。客体(大日如来)の関係性が際限ないところまで溶け合ってしまった状態。すでに自己とか人間である自分の意識は薄らぎ、その自分さえが大きな命・大日如来の一部であり、自分が大日如来であるという状態。
そんな一種の恍惚感を味わうようになってきた。
そんなことに気づき始めた時、あの唯識論に関して、もっといい例え方があるのではないかとひらめいた。
コップの例えが視覚的なものだとすると、嗅覚に例えたらどうかと。つまり匂いである。
人間はさまざまな匂いを嗅いだ時、瞬時に、いい匂い、臭い匂い、香しい匂い、鼻が曲がるような匂いと嗅ぎ分ける。
しかし匂い自体には、〝いい匂いも臭い匂いもない〟のだ。匂いは本質的には、それを構成している化学方程式でできているのであって、そこに特性、個性、属性を与えているのは人間の脳なのである。
匂いはなにも人間の為だけにあるものでもなく、あるいはなにかのためにあるわけでもない。そこに種類や特性、価値を加えているのは、ある意味で人間が生み出した幻想にしか過ぎないのかもしれない。
ただ少なくともお釈迦様は、そういった人間が作り出した幻想、無想の世界を捨て去った。
この唯識=嗅覚の例えに気づいてから、自分にとって唯識の考え方はぐっと近くなった。
そんな時、NHK Eテレの「百分で名著」という番組で、中沢新一が鈴木大拙の『日本的霊性』という本を紹介していた。
鈴木大拙と言えば欧米に禅を紹介した第一人者である。その鈴木大拙が『日本的霊性』のなかで評価しているのが、禅と浄土真宗だった。
仏教の中でも密教に傾倒している自分であるが、中沢新一が語る『日本的霊性』に、ここにも唯識論的価値が発揮されているのではないかと思った。
まず禅では〝無分別〟ということを大事にする。
普通人間なら、ましてや大人なら分別を持ちなさいとか、分別をわきまえろ、などと言われるが、そうではなく、無分別、つまり分別をつけないことを禅では重視する。
善と悪と言った二元的なものの見方や、それこそ人間が勝手に思い込んでいる絶対的価値感などに対して分別をつけない。つけないことによってありのままの世界、自然が見えてくる。
禅についてはおよそ詳しくない俺だが、そこにも本来〝いい匂いも悪い匂いもない〟というような唯識論的価値感が存在している気がする。
そして浄土真宗なのだが、これは禅よりももっと詳しくない。
知っているのは親鸞の悪人正機説や阿弥陀仏への絶対他力本願ぐらいだ。しかし中沢新一の話を聞きながら、ここにも唯識論が働いているのではないかと思った。
親鸞が悪人正機説を説いたのには、鎌倉時代という時代背景もあったことだろう。しかし、それを理論的な確信へと導いたのはなんだったのか。
親鸞はある武士から聞かれた。私のような罪科の多い人間でも阿弥陀様は救ってくれるのでしょうか、と。それに対して親鸞は答えた。絶対に救われることができます、と。
ここで視点を人間ではなく阿弥陀如来の視点に移してみたい。
阿弥陀如来は当然、すでに悟りに達している仏である。その仏が〝人間〟というものを見渡した時、そこにはすでに、いい人間も悪い人間もいないのではないだろうか。
ちょうど匂いには本来、いい匂いも悪い匂いもないように、阿弥陀から見れば、そこには個性や特性、属性というものを備えた人間というものはいなく、ただまるごとの人間だけがいる。であるから阿弥陀は、悪い人間、いい人間などということはすでに問題ではなく、そのすべてを救うはずである。
ということに気づいた親鸞もまた凄いと思える。
そして『日本的霊性』のなかで紹介されているのが、妙好人という存在だ。
鈴木大拙が『日本的霊性』を記したのが戦中であったから、その頃にはまだ妙好人
はいたようだ。と言っても妙好人は、偉い坊さんでも、宗教者でもなく、大工であったりする普通に町や村にいる浄土真宗の篤志家であった。
その妙好人たちはノートなどに思いつくままに、うたを記していた。そのうたは宗教的喜悦に溢れながらも、どこかのどかで、南無阿弥陀仏と唱えているのが私なのか、あるいは阿弥陀仏によって念仏を唱えさせられているのか分らない。だが、そのことがひたすらありがたく、うれしいなどと言ったことが記されている。
その背後には阿弥陀仏への絶対他力本願があると思えるのだが、彼らの境地は以下のように達している。
私が阿弥陀仏で、阿弥陀仏がすでにして私。
ここにも主体、客体の関係性が溶け合ってしまっている状態がある。ただそれを真言宗的に置き換えれば、入我我入となるだけではないのか。
と、思いつくままに書いてきたが、仏教の世界認識の根底には、唯識論があると思う。
ただ宗派によって、それをどう表現するかの違いで、それこそ門外漢であるが、南伝仏教の世界にもこういった考え方はあるのではないだろうか。
それと唯識から学ぶことができるのは、偏った考えや価値感は、自然や世界、宇宙、あるいは社会、世間を冷性に見ることができなくなり、時として妄想や我執の状態へと導いてしまうということである。
そうはなりたくないものである。