密教の行法に三尊合行法というものがある。
中央の本尊に対して、脇侍として左に愛染明王、右に不動明王を配して拝むものだ。
この三尊合行法を始めて知ったのは、多分2011年に県立金沢文庫で行われた「愛染明王 愛と怒りのほとけ」展に行ったことがきっかけだったと思う。
そこで紹介されていた三尊合行法の本尊は、仏舎利で、舎利塔を中心に愛染、不動を配するというものだった。
さらにその仏舎利は空海請来のものであり、それが室生寺に隠されており、それを竜神が守っているとか、それがさらに如法愛染法という修法と結びついたりしていて、中世秘教を思わせるのに充分であった。
だがある時、浅草寺で年に一度行われている示顕会という法要があり、それを観に行くことにした。
示顕会は浅草寺の縁起に基づくものであり、隅田川だったか、近くの海だったか忘れたが、兄弟の漁師が網を引くと、そのなかに黄金に輝く観音様が入っており、それを土地の有力者とともに祀ったのが浅草寺の起源とされている。
さらに観音様を祀った三人は、それぞれ神格化され、三社権現として浅草寺の守護神になった。これが現在の浅草神社である。
示顕会は観音様の出現を祝う法要だが、現在では浅草神社の神輿が前日の夜に浅草寺本堂に入り、僧侶と神職が合同で法要を行う。
こういったことは、明治政府の宗教政策で拝されたはずなのだが、近年こういった神仏習合の行事が復活してきていることは嬉しい。
残念ながら俺は、この堂入りの様子を見ることはできなかったが、数年前、神輿が堂から降りたあと、本堂のなかに入ることができ、僧侶が営む法要に参加できた。
だがそこで驚いたのは、仏像の配置だった。
中央に厨子の中に入っている秘仏の観音様。左に愛染明王。右に不動明王という完全な三尊合行法のバリエーションであったからなのだ。庶民信仰のお寺とも言うべき浅草寺で、中世秘教的でもあるといえる三尊合行法に出会うとは、かなり驚いた。
ちなみに浅草寺は現在、単立宗教法人の聖観音宗であるが、もともとは天台宗に属していた。
あと、これは直接関係のない話だが、観音様の守護神が竜神であることも知り、なにか自分のなかで竜神に対する興味が、この頃から涌いてきた。
月に一度、阿字観瞑想のために真言宗のお寺に通っている。
阿字観を行うことも自分にとってのリフレッシュタイムというか、楽しみの一つなのだが、終わったあとの住職との雑談も楽しみの一つである。
その住職に浅草寺でのできごとを話すと、
「ほー。それは意外ですね。浅草寺さんでね。でも密教の寺院では割と多いんですよ。それより高橋さん、知っていますか?日蓮さんはあれをちゃっかりいただいちゃっているんですよ」
日蓮が三尊合行法!でもそれは知っていたのだ。それより、そのことを知っている住職がすごいと思った。
日蓮といえば、鎌倉新仏教の開祖の一人で、法華経を仏教の根本と考え、真言や禅、念仏などに容赦ない批判を加えた僧として有名である。
ただ日蓮は天台宗出身の僧、しかも鎌倉時代の人なので、中世密教世界のただ中にいたことも事実で、若い頃、虚空蔵求聞持を修していたこともあるのである。
だが日蓮は最澄は敬愛しているが、天台宗に密教を取り入れた円仁のことはボロカスに批判している。
このあたりの日蓮の思考というのは、いまいちよく分らないし、日蓮は一宗派を作るというよりも、自分が天台宗の正当な後継者だと思っていたのではないだろうか。そのへんの根拠もよく分らないのだが。
しかし日蓮が作ったという本尊の板曼荼羅を、よくよく見てみると、まさに中世秘教的な宇宙観が繁栄されていることが分る。
中央に題目を配し、四隅には四天王、釈迦、文殊、普賢、日天、月天、天台大師、伝教大師、第六天魔王、鬼子母神、天照、八幡などなどがカオスのように配列されている。
そしてある種記号のように、そこに題目を守護するように、愛染明王、不動明王が配されているのだ。
これは文字によって描かれているので、なかなか分らないのだが、これを絵画で表現したら、ものすごい世界が立ち現れてくる。
これが密教を否定した人間の作ったものとは思えないし、論理的にはまったく矛盾しているのだが、そこにはそれこそ現代人には、なかなか理解できない中世人の思考が働いているのかもしれない。
今年四月。阿字観に通っているお寺が、高野山真言宗なので、高野山開創1200年記念法要に参加するために、檀家のみなさんと一諸に高野山を目指した。とにかく開創1200年の年と、自分が生きている時代が同じく巡り会うなんてことはないと思ったので。
それ以前にも高野山には二回行ったことがあったが、絶対秘仏である金堂の薬師如来が御開帳され拝めるチャンスがやってきた。
現在の本尊は、消失してしまった本尊の替わりに、高村光雲が作った物だが、それでもまばゆい力、光を放っていた。
だがそれと同時に、俺が注目したのは、脇侍だった。
右に不動明王。左に降三世明王。
あれっ。左には愛染明王ではなかったのか。それなのに、ここ高野山の金堂では、愛染明王の代わりに降三世明王になっている。これはどういうことなんだ。
1200年記念法要が終わり、再び住職のところへ行き、そのことを質問すると意外な答えが返ってきた。
三尊合行法のことを住職は、一仏二明王法と言っていたが、密教の教えには儀記と口伝というものがある。
儀記とは教典や聖教、つまりテキストに書いてある教えや修法の説明であるのに対して、口伝は師匠から弟子に伝えられてゆくものであり、むしろ密教ではこの口伝が重用視されることも少なくない。
一仏二明王法でも、儀記では左に降三世明王、中央に本尊、右に不動明王となっているのだが、口伝では左に愛染明王となっており、この口伝のほうが広く用いられるようになったようなのだ。
さらに愛染明王(降三世明王)は、金剛界曼荼羅。不動明王は胎蔵界曼荼羅を象徴しているということも教えてもらった。
つまり一仏二明王法(三尊合行法)は、中央に本尊を置き、左右に明王を配することによって、密教の金胎不二の教えを現しているのではないかと思える。
と、三尊合行法、もしくは一仏二明王に関して、とめどなく思いつくままに書いてきたが、いつ、どのようによって、このスタイルが確立したかは浅学によって、分っていない。
以後、そのあたりを探っていきたい。