見世物趣味というものがある。
見世物趣味がゆえに、見てみたいと思うものもある。
若山富三郎主演、テレビ時代劇「啞侍」が、それにあたる。なにしろ若山富三郎演じるところの主人公は、聾唖者でしゃべることができない。
会話のやり取りもジェスチャーか筆談を用いるしかない。
そもそもこの設定が強烈で、このようなものがよくテレビのゴールデンタイムに放送されていたな、と2010年代の今からすると思うのだが、初めは弟・勝新太郎の座頭市が視覚障害者だから、兄は聾唖者という安易な企画の元に始まった番組かと思っていたが、回を重ねるうちにそんなもんでは済まされぬ骨太なものであるということが分かってきた。
そもそも啞侍(自分では鬼一法眼と名乗っている)が声を失ったのは、父親が長崎奉行をしていた時、密貿易の話を持ちかけられ、それを断るとイスパニア(つまりスペイン)剣士、ゴンザレスが現れ、父と母を殺し、鬼一法眼の喉を掻き切り、さらにいいなづけ菊乃をレイプして行った。
このゴンザレスに襲撃された模様が、毎回まいかい、鬼一法眼の頭の中にフラッシュバックのように現れ、その度に鬼一法眼はゴンザレスへの復讐を誓うのであった。
ここで、この番組の時代設定がいつなのか、見始めた当初は困惑するものもあった。
イギリスやフランスということなら、幕末ということで納得できるが、スペインというと桃山時代とか、よくて江戸初期になるはずであろうと思ったからだ。
しかしある回で、こんなエピソードがあった。
尊王攘夷、倒幕を掲げる若者たちが、山に拠点を築き、村人の子供、さらに代官の子供たちをも人質に取り、無理難題な要求を押し付けてくる。
それができないとなると、子供たちをどんどんと殺してゆく。代官に請われた鬼一法眼は報奨金を受け取り、秘密裏に拠点に潜入し、若者たちを倒し子供たちを救出する。
このようなエピソードが数話あり、この物語が幕末を設定にしたものであるということが分かってきた。
また当初、怪盗卍として活躍する勝新との共演も面白い。
鬼一法眼はゴンザレスを倒すため、イスパニアに渡航しようと計画しているが、実は怪盗卍は海外との出入国を取り締まる神奈川奉行であった。
兄の意思と自身の立場の間で揺れ動く、勝新の演技も見もの。
また監督は若山富三郎、勝新太郎にゆかりのある人が手がけているのも嬉しい。
例えば東映の山下耕作。大映の三隅研次。さらにこの作品は勝プロ制作であるため勝新自身や、若山富三郎自身が監督した回もある。
で、鬼一法眼は堺にいる商人の渡海屋(大木実)にイスパニアへ行く手はずを整えて欲しいと願い出るが、それには千両の金がいると言われ、賞金稼ぎを生業として生きていく。
街や村の番所に貼ってある罪人の人相書きを剥ぎ取って、罪人を捕まえ、賞金を貯めイスパニアへの渡航費を稼ぐ中で、事件やドラマが展開されるという構成になっている。
ドラマの前半は尊王攘夷派の若者たちが、子供たちを皆殺しにするなど、悲惨で救いのない結末が多い。
また物言わぬ啞侍の存在ゆえに、なにか重苦しい空気が漂う。
そんな「啞侍」を見ていたある日、『殺しが静かにやってくる』というマカロニウェスタンの作品を見てみた。そして衝撃を受けた。
主人公のガンマンは聾唖者。しかし射撃の腕はものすごい。だか、このガンマンの過去には暗いものがあり、保安官であった父親が悪党に襲撃され殺されると、このガンマンも口封じのために喉をナイフで切り裂かれ、声を失ったのであった。
ほとんど「啞侍」と同じ設定である。
さらにこの作品のラストが、映画至上最も救いのないものであって、まさかと思わせるほど悲惨であった。
当初、「啞侍」の救いのなさは、同時期に放送されていたと思われる「木枯らし紋次郎」の影響なのかなとか漠然に考えていたが、実は海の向こうからの影響とは思ってもいなかった。
さらによく考えてみると、賞金稼ぎという設定自体が、決定的に西部劇からの影響を受けていると考えられる。
確かに江戸時代、番所や高札に手配者の人相書きを張り出しておく、ということはあったが、それを民間人や浪人などが捕まえて、賞金を受け、それで稼いでいたという者はいなかったと思う。
これは西部劇に良くある設定で、開拓時代のアメリカでは警察力が不安定だったので、賞金稼ぎを生業とする者は確かに存在したのだろう。
さらに鬼一法眼は、剣以外にもコルトガバメンツみたいな連発式小銃を持っているし、その編笠にはバックミラーが付いているし、剣の鞘の部分が仕込みになっているし、体のあちこちに手裏剣を隠しているし、ポンチョみたいの被って、馬にまたがってと、まるで人間凶器なのであるが、これも西部劇からの影響だろう。
だからと言って、「啞侍」がデタラメだと言いたいわけではない。時代考証とかがめちゃくちゃだと言いたいわけではない。
むしろそういった洋画の要素などを、貪欲に吸収して時代劇として成立させている点に面白さを見つける。
現在、時代劇の製作本数は激減しているが、その中でも製作される作品は、何か萎縮してしまっているように思える。
時代考証などを考えるあまりに、縮こまったような作品のような印象を受ける。
もはや「啞侍」のようなビッグスケールな作品を生み出すことは不可能なのだろうか。
ゾロアスター教みたいな連中が幕府転覆計画を企み、鬼一法眼の剣が冴え渡り、時にはコルトガバメンツを発砲し、毎回爆破シーンが連続し、芝居小屋の娘とのホロリとさせるエピソードも挿入し、ハーフの子供がいじめにあうというディープなテーマにも挑んでみる。
そして口のきけない啞侍は、月光が差す林の中で子犬と一緒に焚き火にあたり、握り飯を食っていた。
さらに書けば、富田勲のアナログシンセのグニョーンとした音と、タブラのエキゾチックな音が物語を彩っていた。
さらにさらに書けば、志賀勝は若山富三郎の付き人だったので、頻出してきてスラム街の住人や、ヤクザのドサンピンを演じていた。
そんな時代劇を作り出すことは、もう不可能なのだろうか。
物語も終盤。
鬼一法眼が金千両貯めて、堺の港までゆくとイスパニア行きの船は出て行ってしまった。遠くで霧笛がなるなか、呆然とする鬼一法眼。
だが次回になると、えっ、という展開が待っていた。イスパニアの女王が使節として来日し、それに随行してゴンザレスもやってくるというのである。
渡海屋なんかは、
「怪我の功名ですな」
なんて言っていたが、まるでドッキリのようなこの展開には、大人の事情が作用していたのだと思う。
ゴンザレスと鬼一法眼は江戸、寛永寺にて御前試合に臨むことになったのだが、その前にゴンザレスは女王に対して、あれだけ悪逆非道なことをしておいて、
「シアイ オワッタラ カレノ ノドノ シュジュツ オネガイシマス」
とか何を今更的なことを言うのだが、その御前試合では将軍、女王、関係者一同が見守るなか決闘が行われたのだが、ゴンザレスはあっけなく負けた。
引っ張って引っ張ってこれかい!的な部分もあるのだが、むしろここまでに至るまでの、鬼一法眼の艱難辛苦を乗り越える過程が面白いと思わせる作品であった。
がゆえに、何やこのラストは!とも言いたくなるのだが。
啞侍がどうやってあのコルトガバメンツを手に入れたかは定かではない。