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執筆者の写真makcolli

吹けば飛ぶよな男だが


なべおさみの芸能人生で一番輝いていた時期は、いつだろう。

とりもなおさずそれは、息子、なべやかんの明大裏口入学発覚から始まった一連の〝事件〟であった。

なべが語る楽屋に現れた謎の老紳士。そしてサメが出現して困っているという漁港に赴き、サメを退治すると称したシャークハンター必殺隊。

会見で同席していた立川談志は、

「なべは男だから長ドスくわえて海に飛び込む」

と言い放ったが、当のなべは漁港に着くなり、踵を返し、

「さっ。帰ろう」

の一言のもと、ダッシュで機上の人となり、羽田で待ち構えていた記者に対しても、

「ぼくは客寄せパンダだから」

と、よくそんなこと言えるなというを口にした。

シャークハンター必殺隊に至るまでの間にも、なべは寺に籠ると称し、報道陣を集めてスコップの上で餅を焼き、

「きょうの夕食、これだけ」

とか、いかにも哀れな自分を演出していたが、世間はなべがかわいそうな自分を演じれば、演じるほど、冷ややかな視線を注いだ。

あれは90年代初頭のことであっただろうか。

もし、どこぞの気の利くDVD制作会社が、なべの一連の騒動をまとめて製作し、世に送り出すなんてことになった場合には、俺は迷わず大人買いするが、それを遡ること68年、なべを主人公に据えた一本の映画が公開された。

『吹けば飛ぶよな男』である。

ごった返す神戸駅の周辺。

そこにいる女を見定めている芦屋小雁をリーダーとするチンピラたち。その中になべもおり、さらに佐藤蛾次郎もいる。蛾次さんが何度か女にアタックしたが、今風に言うなら、

「なに。この人キモーイ」ってな感じで逃げられてしまう。

そこに現れたのが、いかにも田舎から出てきたという感じの緑魔子。

チンピラたちは右も左も分からない緑魔子を言いくるめて、郊外に連れて行き、緑魔子にセーラー服を着させた。

カメラを構えるおっさん。

「あんじょう頼むでー。ばっちりのやつをな」

興奮がちにそう言う小雁。

「もう。これフィルムカラーで高いしな。テストもなしに本番や」

学ランを着てスタンバッテいたおっさんが、緑魔子にキスをしようとする。一行はブルーフィルムの製作をしていたのだ。

当然、そんなことなにも聞いていなかった緑魔子は、逃げ出してしまった。

「もう。こうなったらしゃーない!ドキュメントや!ドキュメント!おっさんばっちり撮ってや!」

そう言うと小雁は緑魔子に襲いかかりレイプを開始した。

なべと蛾次さんは見張りの役目をしていたが、小雁が強姦を働いているのを見てたまらず、小雁の頭を岩で殴打し、そのままなべは緑魔子の手を引いて逃げ出し、なべの子分である蛾次さんも、それに付き従った。

その後、なべはにべもなく緑魔子と別れようとしたが、結局夜の街で緑魔子に言い寄ってくる男たちを見ていられず、

「おう。おっさん。これわいの女だ。どう始末してくれるんや」

とか言って、緑魔子を連れ回すのであった。

がチンピラであるなべは緑魔子を使って、美人局を計画する。

「こうな4、50くらいの冴えないおっさんに目をつけてやな。連れ込み旅館に案内するんや」

なべは蛾次さんにそう説明する。そして、捕まった冴えないおっさんというのが有島一郎であった。

「ひひひ。ここだんねん。あとはよろしゅう」

蛾次さんにそう言われて部屋の中に入ってみると、そこには緑魔子がいた。別に何をする訳でもない二人。そのまま時間が過ぎてゆく。するとそこへ、なべが現れ、

「こら。おっさん。よくもわいの女に手を出してくれたな。この落とし前はどうつけるんじゃ」

と因縁をつけてくる。

有島一郎は何とかその場のトラブルは回避しようと、なべたちに金を差し出した。が、そのあと彼らは意気投合し飲みに行くことになる。

屋台で飲んでいる時、ぐでんぐでんに酔っ払っている有島一郎を、なべはもっといいところがあると言ってミヤコ蝶々が経営するトルコ・エデンに連れて行った。

「おう。淫売。客連れてきてやったで」

「またチンピラか。お前に客引きしてくれなんて頼んだ覚えないわ」

「まあ。そう言わんと、このおさっん天国に連れて行ってやりいな」

なべは飲んでいる時、

「わし、オカンの記憶ないねん。でも噂で聞いたんやけどな。京都の河原町で淫売していたそうや」

ってななかなかにディープなカミングアウトをしていた。

有島一郎は有島一郎で、初めてのトルコ体験に嬉し恥ずかしの表情を浮かべたのであった。

なべ、蛾次さん、緑魔子はそのまま調子よく六甲山に遊びに行った。

ペプシなんかを飲んじゃっている三人。はしゃぎ回る三人。

「こいつはな。ガスって言うんじゃ。それがおもろおてよ。港の船員にガストン言うのがいて、そいつにオカマ掘られたんじゃ。もう。ネズミみたいに逃げ回りよって。なあガス」

「あっ、兄貴それだけは」

「オカマ掘る?」

緑魔子は九州天草から職を求めて、神戸に出てきたのであった。

「わたし。工場でもどこでもいいから働きたいの」

「仕事のことならわいに任せとけー。いいトルコ紹介してやるさかいに」

「トルコ?」

そして向かったのが、先のトルコ・エデンであった。

店内に朱色の橋がかかっているその模様は、今から見ると歴史遺産として残すべきものであったと考えることもできるし、その橋は日常と非日常、悦楽の世界へと男を導く橋であるとも言えるだろう。

その橋の手前のロビーで、なべは札束を勘定している。

「言うとくけどな、これは人身売買とちゃうで」

「わかっているわい。この淫売」

「あんたもあんたでな。こんなチンピラといつまでも一緒にいたらあかんで。きょうからこのエデンに入ったんやからな。わたしのことをお母ちゃん思うて、相談でもなんでもしてええねんで」 「♬ かおるちゃん 遅くなって ごめんねー」

店内には当時のヒット曲「花は遅かった」がかかっている。そして泣いている緑魔子。 「なんや。おまえ悲しゅうて泣いているのか」

「違うの。わたしこの歌聴くと悲しくなって」 「なんや。せやけどな。こんな淫売の言うこと聞くことあらへんど」

「やかましい!チンピラ!はよっ、いにさらせ!もう玄関に塩まいとき!」

そのままなべは蛾次さんのアパートに向かった。

「うわっ!臭っ!何回来ても豚小屋みたいなところやな」

そのスラムの中にある、これまたアジア的身体とでも言おうか、日本では絶滅したろうがフィリピンあたりでは、いまだに健在であろう、底なしの底のようなどん底のような、でも人間生きていますというアパートの二階にある蛾次さんの部屋を訪ねると、蛾次さんは顔に青タンを作り、鼻の穴に綿を突っ込んでいた。

「どうしたんや!ガス!」

「あいつらがきたんや。女出すか10万払え言うて」

「10万かあ」

なべの中で幾ばくかの危機感はあったのだろうか。それとも明日は明日の風か吹くとでも思っていたのだろうか。

それから幾日かが経ち、なべとガスが例のどん底のようなアパートに戻ると、そこには芦屋小雁たちが待ち構えていた。

「なんじゃい!おのれら!なんぞ用でもあるんかい!」

「とぼけんない。女はどこにやったんじゃ!そうでなかったら10万、落とし前として払ってもらおうかい」

「女も10万もあるかい!おう!落とし前つければええんやろ!落とし前!」

そう言うとなべは、まな板と包丁を持ってきて、自分の小指を落とそうとする。

「あっ、兄貴ーっ!」

「ガス!とめんやないぞーっ!」

小指をまな板に置いたのはいいが、そこから先手が動かないなべ。

「なにしてん」

「とめんやないぞーっ!」

「誰も止めてやせんじゃないか!このガキ、ガタガタガタガタしくさって、こんなもんはな関節のところから行ったらええんじゃ」

そう小雁は言うと、サクッとなべの小指を切り落とした。

「ギャー!」

なべは悲鳴をあげると、なぜかその血まみれの小指を自らの口の中に放り込み、そのまま飲み込んでしまった。これには小雁たちも面食らい、小さなアパートの部屋はパニックに陥った。

「静かにせいやーっ!」

その声とともに現れたのは、ベニヤ板一枚挟んで隣の部屋に住む犬塚弘であった。

粋がっている小雁が犬塚の襟首を持つと、その下からごつい彫り物が現れた。

「わいは〇〇組の□□いうもんや。きょうのところは、わしの顔に免じて許してやってくれんか」

気迫のようなものに圧倒されたのか、単にヤクザと聞いてビビったのか、小雁たちは素直に応じて去っていった。

部屋では血まみれの指を持ちながら、なべがいまだにギャーギャー泣いていて、ガスはなすすべもなくうろたえているばかりであった。

犬塚は知っている医者がいるから連れて行ってやるといい、連れて行かれたのはいかにもモグリの医者という感じがプンプン臭ってくる長門勇のもとであった。

「先生!麻酔はしないんでっかーっ!」

「麻酔なんていう高価なもんは、お前みたいなやつには使えんわ。おっ、こりゃ骨の先が出てやがるな。ちょっと押さえてろ」

そう長門勇は犬塚に命じると、雑っぽくペンチみたいなので、なべの骨を切断した。

例のどん底のような、でも人間生きてますアパートでは、暗がりの中、爺さんがステテコ姿でタッションをしていた。

これは山田洋次監督作品である。

しかし、いかにも山田洋次という作風ではない。冒頭のブルーフィルムの撮影シーンから、リアルに再現されたトルコ内部、さらに連れ込み旅館での美人局。スプラッター度が高い指詰めシーン。スラムの中に存在するオンボロアパートまで、かなり猥雑度が高いのである。

山田洋次は庶民を描いているようでいて、実はここまで底辺の世界を描くことはない。

この作品のタイトルロールに、脚本が山田洋次と森崎東の共同であるということを確認した時、可能性を感じた。

まさに森崎東こそは松竹喜劇の中で、どん底の底に生きながらも、しぶとく生きていますという大衆を描いてきた監督だからだ。

もちろん演出面においては山田洋次的作品なのであるが、物語の骨格は間違いなく森崎東イズムによって形成されていると言って良い。

その結果、山田洋次作品史上最も濃い、ディープな作品になっていると言ってもいいだろう。

あと付記したいのは、森崎東を筆頭とする松竹喜劇の作品を見る時、驚くのはスラム、ほったて小屋、ボロアパート、ションベン臭い横丁などなど人間の生活臭が強烈に漂ってくるセットに関しては、執念とも言えるような完成度の高さを示していることで、この点に関しては他社の追随を許さないものがあると断言できる。

一方、有島一郎のほうは泥酔してトルコに行ったのはいいが、そこで忘れ物をしてしまい、ミヤコ蝶々がトルコ嬢たちに男の陥落の仕方をレクチャーしている時に再びエデンに現れた。

「どうも僕は学校の教員をしておりまして、昨夜大事な書類を忘れてしまったようで」

「まあ。あんた、そんな書類なんてどうでもええやないですか。ねっ。ここはもうひとっぷろ浴びて行ってね。身も心も綺麗になろうじゃありませんか。ねっ。サリーちゃんもメリーちゃんもいることやしね」そうミヤコ蝶々が喋り倒すなか、有島一郎の目に留まったのは緑魔子だった。

二人はトルコの一室においてもなにをするでもなかったが、なぜかこの後、有島一郎は緑魔子の相談相手になっていった。

なべはガスの部屋の片隅で手に包帯をぐるぐる巻いて泣いていた。

ガスが食料を買ってきて、

「兄貴。調子はどないでっか」

と聞いても、泣きながらガスの頭をひっぱたくしかできなかった。

この作品のキャスティングは山田洋次が考えたのであろうか。

だとしたらなかなかに素晴らしいキャスティングと言えるだろう。なべおさみ=チンピラという設定には何かリアルなものを感じる。

息子の裏口入学事件の時も、当初は「大物芸能人」が不祥事を起こしたと聞いて、蓋を開けてみたらなべおさみだったということで肩透かしを食らった思い出があるのだが、そのように大物というイメージからは程遠い人物で、たまたまハナ肇の弟子だったというところから、「ルックルックこんにちは」の司会者になり年寄りの同情をかっていたような三流芸能人である。

言い換えればドサンピンでありチンピラである。

根は小心者のくせして、虚勢を張って芸能界を渡ってきたというイメージが強い。そんななべおさみは『吹けば飛ぶよな男だが』でチンピラを演じるには、最適の人物だったと言えよう。

そして港の船員、ガストンにオカマを掘られたという経歴を持つ佐藤蛾次郎もまたいい。

基本的に蛾次さんのイメージというのは、「男はつらいよ」の寺男、ゲン公に見られるちょっと頭の弱い男という要素で構成されていて、この作品でもそれは同じなのであるが、そこに森崎東テイストが加味されると、港の外国船員ガストンにオカマを掘られ、ネズミのように逃げ回ったという、ちょっと山田洋次一人では二の足を踏むようなキャラが現出され、蛾次さん自身もそれを見事に演じていく。

なべと緑魔子はたまにガスの部屋で、布団を並べていちゃいちゃしている時もあり、ねんごろの仲になっていった。緑魔子もなべが根っからの悪人ではないと思ったのか、あるいは若さゆえのことだったのか、なべを信用している様子だった。

指に包帯を巻いているなべに緑魔子は、お守りだと言ってマリアの小像を渡す。

「なんや。これ」

「よく知らないんだけど、おばあちゃんが持っていたのよ」

「そうかあ。ありがとなあ」

指詰めの件以来、なべとガスは犬塚にすっかり心酔してしまった。

犬塚の子分でいれば、いずれは自分たちも金バッジを着けて、いっぱしの組員になれると思ったのだ。

しかし、よく考えれば犬塚もどん底アパートの一員、サラリーマンで言えば万年ヒラで嫁さんにも頭が上がらず、メーデーの日には家族サービスでピクニックに行くというヤクザであった。

それでもなべたちにはいいところを見せたかったのか、

「この金でたまにはホルモンでも食べろや」

と言って、小遣いを渡したり、緑魔子との関係を見て、

「いつまでもヒモみたいな生活をしていたらあかん」

などと兄貴ヅラを見せてもみたいところであった。

その言葉を真に受けてなべとガスはシノギを探すことにした。

赤信号で停車している車に、

「よろしゅうたのんまっさー」

「あんじょうたのんまっさー」

の掛け声のもと、なにやらビラを投げ込んでゆく。

夜。

食堂で飯を食っているなべのもとへ電話が入る。

「はあ。じゃあ到着したらクラクションを二回、パパッーと鳴らしてんか」

連れ込み旅館の前にタクシーが到着し、クラクションが二回鳴ると、暗がりからなべが現れ、サラリーマン風の男を一室に案内した。

そこには小柄なワンピースを着た人影が立っていたが、振り向くとそれは女装をしたガスであった。

「きみ。ぼくは帰らせてもらうよ」

「おっさん。なにいうてんねん。帰る言うなら、ここの部屋代払ってもらおうかい」

「なにをそんなデタラメな!」

「デタラメもなにもあるかい!エテコウみたいな顔しくさって!」

ガスはベッドの上でおっさんに馬乗りになり言った。

「出すんか! 出さんのかはっきりしーやーっ!」

ある時、なべがトルコで働いている緑魔子を尋ねると、ミヤコ蝶々に、

「あの娘、もう辞めたで。長く続く娘やないと思とったんや。それになあの娘、もうハラボテや。どうや。お前の子なんか。それやったら早いこと掻き出してしまったほうがええでー」

と言われ、少なからぬショックを受ける。

緑魔子はガスの部屋にいた。

「子供ができたんやってな」

「そう。もう5ヶ月なの」

「わいの子なんか」

「・・・」

「違うんか」

「あなたに会って、まだ2ヶ月よ」

「なにー。それじゃあ。九州のドン百姓とやっていたのかあー。処女みたいな顔しくさってー」

「ごめんなさい」

「掻き出してしまお。そのほうが楽になるよって」

「掻き出す?」

「そうや。はやいほうがええで。今のうちや銭はわいがなんとかしちゃる」

そのまま緑魔子は部屋から出て行ってしまい行方が分からなくなってしまった。

なべは緑魔子の行方をあちこち探しているうちに、有島一郎の家にいるということを嗅ぎつけ訪れた。

「花子(緑魔子のこと)を出してもらおうやないけー」

「まあ。落ち着きたまえ」

「なにが落ち着きたまえや。花子とこの家でええことしてたんちゃうんか。えーっ」

「失礼なことを言うな。きみは誤解しているんだよ。僕のことも、花子くんのことも」

「花子の腹にはな。赤ん坊がおるんじゃい。そんなもの掻き出してしまえばええんやっ」

「それができないから彼女は苦しんでいるんだよ」

「苦しむもなにも産科に連れてってよ。やってもらえば済む話やろうがー」

「ところが彼女はカトリック教徒で、堕胎は禁じられているんだよ」

「カトリックってなんやねん。耶蘇け。そんなもん関係あるけーっ!」

「そのことで彼女は胸も張り裂けんばかりに悩んでいるんだよ。それときみとの関係のことも」

「わい。頭悪いよってになにがなんだか分からんようになってきたわ」

そう言うとなべは部屋の窓ガラスを壊し、有島邸をあとにした。

もう荒れちゃった。

屋台で酒をしこたま飲んで、ぐでんぐでんに酔ったなべはガスが止めるのも聞かずに、通りがかったヤクザに因縁をつけ始めた。それは犬塚弘の組と敵対している組員達であったが、窮鼠猫を噛むということか、追い詰められたなべは懐から果物ナイフを取り出すと、組員の臀部にそれを突き刺した。

「いてもうたーっ!いてもうたーっ!人、一人いてもうたーっ!」

ケツにナイフを刺しただけなのに、人を殺してしまったと勘違いしたなべは血がべっとりと付着したナイフを握りながらそう叫んだ。

拘置所の中の人間となったなべ。

そこへ緑魔子が面会にやってくる。二人とも涙、涙で会話にならない。やっと出てきた言葉は、

「ここ出たら一緒に暮らそうな」

「うん」

の二言だけだった。

が、夜一台の車が雨に濡れたアスファルトの上を通っていると、道にしゃがみこんでいる緑魔子を見つけた。

「あんなところで何しているのかしら」

「とにかく車に乗せようよ」

それから車が走り出しても、緑魔子は後部座席でぐったりしている。しばらくすると助手席の女が悲鳴を上げた。後部座席は緑魔子の下血によって、真っ赤になっていた。

なべ出所というその日。ガスの表情には覇気がなかった。

「なんやガス。わいの晴れの出所の日やで。その辛気臭い顔はなんやねん」

「・・・」

「これでわいも自由の身や。また二人でシノギ見つけようやないか」

「あ、あの兄貴」

「なんやねん」

「花ちゃんが・・・」

「花子がどないしたいうねん」

「花ちゃんが死んでもうた」

「・・・」

急いでガスの部屋に行くと、そこには棺に入った花子の遺体があり、ミヤコ蝶々と有島一郎も駆けつけていた。

恐る恐る棺の中を覗き見るなべ。

「考えてみればこの娘もかわいそうな人生やったな」

「い、いや。僕が、僕がもっと毅然としていれば花子くんはこんなことにならなかったんだ」

やにわに部屋のすぐそばにある共同便所に駆け込むなべ。そこで声の限りに泣き叫ぶなべ。まさにその便所はボブ・ディランの歌う「嵐からの隠れ家」の趣もあり、なべはその「嵐からの隠れ家」において、悲しみをあらん限り表現したのであった。

映し出される天草の景色の数々。

ここからはいかにも山田洋次らしいカットが連続する。天草の景色の中、なべは緑魔子の骨壷を首からぶら下げながら歩いてゆく。

このシーンには台詞がない。海、学校、民家をバックになべは歩き続ける。どこかでなべは、その骨壷を誰かに渡すことができたのだろうか。

神戸港。

ガスはミヤコ蝶々を引っ張ってここまでやってきた。

「あれ。兄貴、おらへんな」

「なんやねん。わしは忙しいんや。こんなところまで連れてきて」

そうミヤコ蝶々が言うと、なべは公衆便所から姿を現した。

「なにしてたんや。おまえ」

「旅立ちの前にウンコをしていたんや」

「アホっ臭。それでなんやねん旅立ちって」

「こんな日本には住み飽きよって。香港からシンガポール、マレーシアと世界を一周するんや」

「兄貴。本当に行ってまうんですか?」

「ガス。これからおまえは一人や。気合い入れてやるんやで。それとおばはん。最後に聞いてええか」

「なにが」

「おばはん昔、京都の河原町で淫売していたことないんか」

「ああ。河原町で淫売していたことあったで。それでその時、男の子が生まれてな。でもその子すぐに死んでもうたわ」

「そうか」

「これ餞別や。おまえにやるわ」

そう言うとミヤコ蝶々は、なべにコンドームを一箱渡すのであった。

「あっちの女とやると、あそこの先がなくなる言うからな」

「そうか。おおきに」

タグボートに乗り込むなべ。船は出て行く。

「ガス。気合い入れろよ。おばはんの面倒見たれよー」

手を振るミヤコ蝶々の頬に一筋の涙が伝う。

今まで見た山田洋次作品の中では、最も好きになった一本と言える。

そこには先にも書いたように森崎東の要素が盛り込まれている、という点が大きく作用しているだろう。

それと、やはり緑魔子は傑出した演技者であるということを再確認した。

特に薄幸な女を演じた時の緑魔子の存在感というか、魅力には特別なものがある。60年代の後半、確かに緑魔子ブームというものがあったのだろう。

この作品は松竹だが緑魔子は当時、東映の女優であったところを招かれて出演している。大映における増村保造監督作品『盲獣』にしても同様である。

山田洋次のフィルムグラフィーの中にあっては、端っこのほうにあるような作品かもしれないが、隠れた邦画の名作であると思った。

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